ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
した(「広報いたこ」第一四五号)。昭和六十年一月に発行された「広報いたこ」第一六九号には、「下水道のはなし」という記事が載せられ、地球規模での水の問題が論じられfここの後、「下水道のはなし」は長期にわたって連載され、広い視野から水を論じつつ、潮来町における下水道事業の内容を伝えていった。平成元年五月発行の「広報いたこ」第一九九号には、「下水道のはなし二九)として平成元年度の下水道事業について書かれている。}こには日の出地区と旧潮来市街地および辻新町までの整備が終わり、昭和六十一年度から開始された、辻の三夜尊を中心とした区域から延方地区に関する事業が進行し、平成二年度からは一部供用を開始できる見込みを示している。ここで公共下水道事業のあゆみについてまとめておきたい。昭和四十七年に開始された時には、潮来町の単独事業として開始されたが、昭和五十年代になって広域下水道組合を組織する論議が高まった。昭和五十年十一月には潮来町、麻生町と牛堀町の三町で、霞ヶ浦行方南部流域下水道組合整備促進協議会を結成し、茨城県に対して流域下水道としての事業を実施するように要望した。この要望は流域下水道の基準に合わないために実現しなかったが、昭和五十六年に制度が改正されたために実現の運びとなり、昭和五十六年六月に三町が第二種霞ヶ浦水郷流域下水変わる潮来地方道として計画を変更して、昭和五十九年三月に正式発足したのである。麻生町と牛堀町へ向けて幹線間渠を延長し、両町の下水を日の出にある潮来浄化センターへ集めて、一括して処理することになったのである。麻生町と牛堀町で終末処理場の敷地を確保する必要がなくなること、第5章町単位で実施するよりも建設費や維持管理費などが安くあがるなどの、スケールメリットを考えての決定であった。以上、市街化区域における公共下水道事業についてみてきたが、潮来町には公共下水道だけでは解決できない問題があった。公共下水道の恩恵に浴することのできるのは市街化区域の住民であり、市街化調整区域の住民には直接の関係がないからである。現実に大生原地区にある広さ一万二00平方メートル、深さ五メートル'のし尿処理場は、し尿でほとんど覆いつくされていたのである(「広報いたvこ第二O二号)。公共下水道の整備だけでは町全体の環境改善にはならず、逆に行政の不公平感が生じることにもなる。}うした事態に対応するために、潮来町では昭和それは、市街化区域においては公共下水道で、市街化調整区域においては農村集落排水六十三年に町全域に関する下水道計画を模索し始めた。整備事業で実施し、大きく離れた人家では個人合併浄化槽を設置して対処しようとするものであった。潮来町農業集落排水事業推進協議会が作られ、そこでは水原一・二・三区、大生・釜谷・大賀、徳島、江寺・貝塚、築地の五つの地区を作って農村集落排水整備事業を進めることを考えていたという(「広報いたこ」第一九五号)。この問題については、平成元年十二月の「広報いたこ」第二O二号が「生活系の排出・排せつ物処理を考える」という特集を組んでいる。V」れによると、一日に町内から排出されるし尿の量は三四・九キロリット一0・八キロリットルは家庭用雑排水といっしょに公共下水道で処理され、五・四キロリットルが個人浄化槽で処理され、残りはほルであり、とんどが大生原のし尿処理場へ投棄されている実態が報告されている。公共下水道を使って処理されているし尿は、町全体の約三Oパーセントなのであった。し尿処理場の建設は結局、潮来・牛堀二町環境衛生組合の手で、平成二年度からの二か年継続事業として実施されることになった。両町は昭815