ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

原始・古代第三節稲作のはじまりE稲作の起源はインド北部のアッサム地方から、中弥生時代の風景国南部の雲南地方とされている。起源とされるこの地域は、メコン川の上流域で、肥沃なる三日月地帯にあたる。中国では、四0001五OOO年前の仰詔文化の時期には、場子江流域に始まっている。近年、日本海流域の稲作伝播経路が、話題となっているが、縄文時代の晩期遺跡から、プラントオパールが確認され、稲作は、縄文時代晩期から始ったとされている。この、プラントオパールとは、イネの化石のことで、イネ科植物には多くの珪酸が含まれており、稲が枯れた後、数千年経っても細胞が化石となってそのまま残っている。)のことから、土壌を分析して、イネ科の化石が存在することが分れば、稲作そこに、が行われていたことになる。日本列島の縄文時代の後半は、気候は温暖で、植相も照葉樹林・広葉樹林が主体となっており、}の、照葉樹林、広葉樹林と針葉樹林の接点にある当地域は、恵まれた自然環境のなかで、生活が続けられていたことが考えられるが、自然界は、日照りや皐魅などのいたずらをするため、食料事情が悪くなり、食料資源を求めて、長い距離の移動を余儀なくされたこともあったのではないだろうか。このような環境の中で、狩猟、採集による生活が中心であった縄文時代も、約一万年の聞に、様々な訓練と経験の中で新しい知識が芽生えて、I3、MMaf0-それが原始農耕と言われている管理栽培である。生きているすべての生物は、その生命を維持するために食物を摂取し72なければならないのは、全てに共通するもので、}の事が地球上の生物のバランスを保つことにもなっている。これらの生物の中で、もっとも雑食なのが人間である。縄文時代の前半は寒冷期でもあるため、自然環境の中で食料を求めている人びとにとっては厳しい生活の連続であり、食ぺて害のないものがすべて食料に供されていたようである。}の頃には、ドングリ類などアクの強い木の実を加工していたことが知られている。縄文時代中期以降になると、気候も温暖となり食料事情もこれまでとは違って豊富になり、充分に獲得できたはずであるが、アクの強いドングリ類を含む木の実の加工は引続いて行われている。これらのドングリ科の植物は、雑木林に自生している。動物の集団にテリトリl(領域)があると同じ様に、人の集団にもテリトリーが在り、そのテリトリlの中に木の実がなる木が繁茂していれば、いつも同じ季節に定期的に多くの食料を確保することができる。}れらの木々にすこし手を加えただけで、より安定した収穫が得られたのではないだろうか。}れが管理栽培の初現である。)の頃、山間部では焼畑がおこなわれていたとの説もあるが、まだ確証はない。}のような環境の中にいて、もし、コメという栽培植物が日本に入ってきたとするならば、管理栽培がなんであるかを学習している人びとにとって、栽培植物を受入れるのは、そう難しいものではなかったのではないだろうか。四0001五000年前にはじまった中国大陸での稲作は、黄河、楊子江の流域に広がり、流域下流に到達した稲作技術が南シナ海から日本海の潮の流れに乗り、日本列島に入ってくることは必然的なことである。