ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

原始・古代Eかりとなったのは、女方遺跡から出土した土器の中に、貝殻条痕文土器と呼ばれる、伊勢湾周辺で作られた、水神平系土器が含まれていたからである。この土器は、種籾を運んできた土器であることを示すように、一緒に出土した他の土器と形、胎土(粘土)など明らかに異なっている。籾を入れた土器は、天竜川ルlトを遡り、長野、群馬、埼玉、そして福74島南部と、その足跡が河川沿いに見られるのが特徴である。女方遺跡に到達した弥生文化は、西日本の弥生時代中期ころで、再葬墓と呼ばれる墓が四一基も確認され、各墓の中には、縄文時代にはあまり見られなかった壷、聾が一個から、多いところでは一O個が埋置されていた。この、女方遺跡に種籾を入れた壷が到達する頃、震ヶ浦沿岸でも、新弥生文化伝播の経路しい弥生文化の息吹きが聞こえている。桜川村殿内遺跡は、霞ヶ浦に浮ぶ小島であったが、現在は、干拓によって稲敷台地と陸地続きとなっている。遺跡は、低段丘にあり、閉じ高さの所に、縄文時代晩期の前浦遺跡などがある。昭和四十三年(一九六第1 -15図八)、明治大学考古学研究室の杉原荘介は、初期弥生時代を究明するために、当遺跡を発掘調査した。確認された遺構は、小竪穴といわれる、掘り窪めた穴状のもので、南北一八メートル、東西一0メートルの範囲に、一O基が確認されている。これらの穴には、壷、聾、鉢が入れられているのが特徴で、これを「再葬墓」(いちど土葬にした遺骸を、数年後に掘り出して、骨だけを容器に入れて再埋葬する方法で、沖縄地方では、今でも洗骨葬として残っている)とよんでいる。東日本の初期弥生時代の遺跡は、ほとんどが、の「再葬墓」の遺構が中心で、籾を入れた壷が伝わった遺跡も、いまだに集落跡が確認できず、いずれも再葬墓のみである。殿内遺跡で確認された小竪穴については、次のとおりである。第一号小竪穴は、長径八0センチメートル、短径六0センチメートル、深さ四五センチメートルで、胴長の壷と鉢が口を合わせて置かれ、その中に、二O歳前後で性別不明の人物の下顎左側第一大臼歯が残っていた。