ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
盛大な宴が行われる。用することが多くなった。もとは自宅であったが、現在は料亭やホテルを利またそのおた。辻の該当児は全部硯宮神社に集合し、合同紐解き祝いをするようになっオピトキの場合、招待者の祝儀、大賀では、十一月になると餅をつき、親戚や近所が多いと三俵から五返しは、結婚式のようであるという。七五三の祝いは、女の場合盛大であった。津知では、旧暦霜月十五日に三歳、成長を祈願し、親戚知己を招待し、祝膳を用意し祝盃をあげる。子供は四歳、五歳、七歳の子供の健康と嫁の実家から贈られ、ご馳走は、料理番を頼んで魚類を調理し、自宅でとくに長男、長俵位はついた。くり、親戚には紅白七ツの餅を入れ、太縄で七五三にしばる。着物類は、参詣してお被いをうける。正装し、女児は化粧をして、額に紅で点を描き(位星とかいう)、神社に水原では、宴を行っていた。オピトキの子供が十一月二十三日に香取神社で合同で組解お神楽をあげたり、ネL-十五の祝いO五立ちの祝い@衿掛け餅(首掛け)企背負い団子(南天・唐辛子・餅)衿掛け(南天・唐辛子・里芋・餅)儀生人第2章お神酒をいただく。現在、」の餅を配る時は、竹で編んだヒゲコという入れ物をつき祝いの式を行っているが、その後の祝宴は、もとは自宅、現在は旅館や保養センター、飲食庖で行っている。男子一五歳の祝いは、新しい着物で鎮守様へお参りをし、家では赤飯を炊いて家族だけで祝う。あまり盛大には行わない。昭和二十年代までは、新しい帽子・学生服子供の成長祈願を着て、親と一緒に鎮守様にお参りに行く姿も見受けられたが、現在はほとんど行われていない。中学校において男女共立志式がある(潮来)。また男子一五の祝いは、昔は霜月十五目だったが、今は二O歳で一月十五日の成第VI-32図人式に女子とともに行う。昔は着物もはじめて角袖を着、神参りをして成年式を行い、それがすむと神事に参加することも許され、村仕事にも一人前として家を代表して出ることができた(津知)。延方では、男女一五歳で「十五祝」をした。男は角袖の着物、女は振袖をつくり、鎮守参りをしたが今は行われていない。成長祈願の一つ、十三参りは、潮来地方では顕著ではない。家によって村松の虚空蔵様または北浦村の虚空蔵853