ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

第四号小竪穴は、長径七0センチメートル、短径約六0センチメ1トル、深さは第一号小竪穴よりやや深い。穴の中には、大型聾と小型聾がし、。口を合わせて横になった状態で置かれている。人骨等は確認されていな第八号小竪穴は、長径八0センチメートル、短径五五センチメートル、深さ四0センチメートルで、北側に胴長の壷、南に筒形土器が置かれ、査からは、躯幹骨、中手骨が、筒形土器には、頭蓋骨片、下顎骨片、上顎骨片、左第一切歯が入っており、狩りとすなどりーJヂ1/九,-_lJ'i"撤去要昭紫雲草n2ア/\jFJ一JE町長J一一幅一一-JJT,du--他県憎いい一.、F h川・ー第1章いずれも三O歳前後の男性のもので同一人物の可能性がある。第一O号小竪穴は、形、規模は揖乱を受けて不明であるが、深さは八0センチメートルある。小型の壷一個が出土し、壷の中に七個の歯がみられた。性別は三O歳前後の女性であるとされている。一O基の小竪穴から出土した土器は、縄文時代晩期末から初期弥生時代のもので、女方遺跡に伝わった水神平系土器は含まれておらず、縄文が主流である。時代晩期から変化して弥生時代を迎えた変形工字文の文様をもっ土器群12・13一第8号込場会。ムヌーJ4号土境1号土壌弥生時代は、稲作の浸透、農耕の確立に代表される時代であるが、茨城県内を含む北関東の初期弥生時代を見る限桜川村殿内遺跡出土の土器と土墳り、稲作が定着した状況はみられない。)のことは、安定した縄文時代晩期が続く女方遺跡の中に、突然に、新しい文化が流入してきた。}れを受けたその遺跡の人達は、新しい作物であるコメを受入れ第1 -16図ることは、管理栽培の中に培ってきた穀物類との関係から驚くほどのものではなかったと思うが、問題は、稲作に伴う祭の形態が、同時に入ってきた可能性がある。75