ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

俗仲人の取り決めの場合、仲人が結婚式の日取りを連絡する。新郎家では、新婦家からのお客の数に応じて宴会の準備、式に要する品々を用意民した。徳島は舟による交通が主だったので、客の数は限られていたが、羽七人、九人、一一人といった奇数である。客の中にはタルカツギ(樽かつぎ)とオキツケ(置付け)がいる。樽かつぎの持物は、夙に米を入れ、樽に酒を入れて、一一メートル位の竹でかつぐ、置付けは叔母があたる。式は夜半に行われ、終了すると、置付けが明朝まで新郎方ですごし、嫁と里帰りをする。式は、「三階盃」が客に廻され、ショウパン人が式の責任を果すため、謡曲を唱う。謡曲は、「高砂」「四海波」「鶴亀」「永き生命」「千秋楽」で、三階盃を飲み干すたびごとに唄うのである。三階盃の酒を注ぐ役は、小学生の男と女が近所、親戚の中から選ばれる。この子供二人は、嫁方のお客様から多額の祝儀がいただけた。嫁が新郎の家に入るときには、火を燃やし、船頭笠を嫁の頭にかぶせる。「嫁にきた以上、絶対帰ってはならない」という意味がある。昔の結婚式は、近親者だけだったから、式が終った花嫁は、叔母に手を引かれてまず淡島神へ参詣、次いで区長宅へ行き、「今後お世話になる」旨の挨拶をする。さらに地区の親戚、近所と各戸を訪問して歩く。地区内の人びとは、嫁いできた花嫁をみるため、行く先々で大賑いであった。また翌日の晩からは、地区内の青年らが新郎新婦の夜の生活をみょうと、当家の廻りでうろつく姿がみられ、中には見破られて追われ、素足で逃げ帰る者もいたそうである。年末になると、集落の男子小学生らは、今年は何人の嫁さんがきたか、みんなで相談するのが楽しみであった。嫁ブチの日が近づくと柳の枝を、太さ二、三センチメートル、長さ三0 1五0センチメートル位に切って、万のようにつくる。二0センチメートル位は皮をむきながら、持手の方858一0センチ位を残して垂らす。各自一本ずつもって、夕方集まり、夜になると一五i二O人位の集団で、東の方から花嫁の家に行き、「嫁ブチだ、嫁プチだ」と庭で唱える。一年のうちには、徳島で一O人1一五人花嫁のきた家がある。その家では、子供らがきてくれるのを待っておりやってくると、のし袋にお金を入れて、「ご苦労様、ありがとう」といって子供らに与える。昭和初期まで続いた行事であった(額賀熊雄)。なお、配偶者の選択について、血筋、系統、親戚、財産、年廻り、相ひのえ性などが考慮されたが、昔はイトコ同志の結婚もあった。また丙年生まれの人は閉じ年生まれの人と結婚した。結納をしたあと破談になると、「結納金の倍返し」であった(大生原)。結婚後の人生では、厄年にあたっての厄払い、結厄払いと賀寿祝い婚記念、賀寿の祝い等がある。厄年は、一般に男が二五歳と四二歳、女が一九歳と三三歳である。男の四二歳と女の三三歳を大厄としている。男の三七歳も大厄に加えているところもある(潮来)。大厄が重視され、男の四二歳はさらに前厄、本厄、後厄と三か年が設定されている。厄年は節分を境とした数え年で、)の日の厄除け祈願が多かった。祈願するところは成田山、川崎大師で、ひろくこの参詣が行われているが、もとはところの鎮守への参詣が普通であった。厄年の年齢は、身体に不調が出る頃であり、もし自身に厄があたらなくても、家族中で一番弱い子供が「厄を背負いこむ」といって熱心に祈願をした。鎮守様に祈願しての帰り、四ツ角に厄落しを願って、後をみないようにして家に帰ったという(潮来)。神社参りの途中で安い品物たとえば手