ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
俗く。鹿島郡、行方郡内はもちろん、千葉県まで行くこともあった。東京方面は電報で、今は電話が利用される。民葬式の当日には組の者が昼食の準備をするので、五01一OO人分のVI膳を用意する。組内には共有の小屋があり、そこに鍋、釜等が保管されていた。また組の者七、八人は、葬式の前日か前々日に、仏具一式の準備をし、役場や寺へ手続きをする。葬式をフコウ(不幸)、プシュウギ(不祝儀)、クヤミ(悔葬式の方法み)、ジャンボン、ジャlボーなどとよんでいる。潮来(七軒町)の事例葬式の当日、弔問者には昼食の膳を出す。葬儀は三日かかり、葬儀終了の夜、当家は組合の人を招待し、たいや「退夜」といって慰労する。今の忌中払いである。組合の人は、金一封を持参した。以上は昭和十五年(一九四O)の例(本戸健調査)。潮来(六丁目)の事例葬式当日は遺族、近親者、参列者にツポ、ヒ一フ、汁物等精進料理で膳を供した。}の仕事はいっさい手伝いの女衆にまかされていた。現在近親者のほとんどが喪服であるが、昔は女性は白装束でまくらぜん野辺送りをした。「枕膳」は、故人に一番近い女の人がもち、行列につロRtRふみ、同月誠一一'v、v'』OLJJ潮来では、祇園祭礼のため八月一日に〆縄を張り道々を清めるので、九日の祭礼終了まで葬儀の列は通行できないことになっている(溜井登喜世調査)。昭和八年(一九三三)、親の葬式のとき、その妻とながじゅばん娘は絹物の着物、絹の長嬬祥、帯、帯留、帯あげ、すぺて白を身につけ潮来(四丁目)の事例て出席、野辺送りには、白い手拭いを被って行った。現在は五ツ紋の喪服を着るようになった。葬式の朝には、チャンと鉦が鳴る。この鉦の音を聞862チャン、チャンいた人は、「ああ今日旅立ちか」と心の中で冥福を祈ったものである。これは「念仏ばあや」が叩く鉦で昔は町内に五、六人はいた。葬式のときも当家の外で、経や和讃、出棺には門念仏を唱え、葬列に入って寺まで行く。埋葬する時は和讃、墓念仏を棺が全部土に埋まるまで唱えている。寺から当家に帰ると「ご苦労もうし」をうけ、帳場から頂き物をして帰る。現在は行われていない。葬式は午後、寺の住職がきて経をあげた後、故人に一番近い人から焼香をする。出棺前に死者と最後の対面があり、終ると先導が大きな石と釘をもってきて棺の蓋に石で打ち付ける。土葬の場合、先導の五人は白の晒を腰に巻き、新品の履物(長靴)を履き、座敷からそのまま土間におり、「ポッチ笠」をかぶって棺をかつぎだいはちぐるま寺まで行く。現在の土葬は、葬儀用の大八車を寺から借用し、棺を乗せて押して行く。現在火葬の場合、骨瓶(骨査)は麦藁帽子を被った先導が寺まで、これより先そして墓穴に納めるまでもって行く。なお先導は墓場に花、花筒、線香等を用意しておく。葬列は、花輪、故人の写真もち(近親者)、白木の位牌もち、木碑もち、枕飯(組内の女性)、参列者の人びとである。寺の本堂で棺または骨瓶をおいて経があげられ、焼香をする。墓地へは先導が棺または骨瓶を運び、前に掘っておいた穴に静かにおろして埋める。近親者は、一握りの土をかけ、先導が土を全部入れ、木碑を立て、花筒に花を供え、線香を手向けるところをつくり、先導が火を付けた線香を近親者、参列者が手向ける。野辺送りから帰ると塩で手を洗い家に入る。当家は先導はじめ手伝いの人びとのご苦労をねぎらい、用意された食事の膳をすすめ、浄めの酒