ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
女働き、念仏年寄へ「張り紙」を出し、各五OOO円で二万円、墓地に供える花輪が二万円で、合計八万円は必要である。親戚は、玄米一俵(二万円)、張り紙は各項目別で、二0001三OO昭和期中頃まではO円、花輪はリ1スで一万円位、計五万円位を要する。その}のほか女働きに一人ずつエプロン、洗剤、他数々の品物を贈る。女働きが二O人i三O人ともなれば、大変な金額である。この品物贈与を「ご苦労申し」という。現在この習慣は廃止されつつある(額賀熊雄調査)。せんどう大生原(大賀)の事例葬式の当日は先頭、座敷番が依頼される。先頭はし色ん蔵掘り(穴掘り)に出掛け、墓地に竹などで「紙門」をつくり、「六道廻り」の準備をする。帰ると先頭が「天蓋」「四十九の団子」「枕飯」などをつくり、酒で浄めて「旅立ち」を待っている。先頭には、草鮭(現在は長靴)、晒六尺、手拭いが配布になる。人生儀礼第2章子供,親戚からとどけられた玄米俵〔潮来〕第VI-38図僧侶の読経がはじまると一番太鼓が鳴り、二番、三番太鼓で出棺となる。出立は、区長、非常係が提灯を下げ先頭になる。棺は四人でかつぎ、一人は天蓋をもっ位牌などは家族がもっ。棺が運ばれている道筋では、家の門口に竹棒などを横に渡しておく。牛馬のある家では急いで餌を与えて鳴くことを防いだ。「鳴くのはよくない」といっている。埋葬されると、送りにきた人は土を入れて成仏を祈った。先導は「天蓋」などを埋め、残りの竹を四九本に割り埋葬した塚に立て縄で編む。稲葉を燃し線香をあげて終る。親族、親戚代表と近くにある地蔵堂へお参りをする。「蔵掘り」に使った鍬と鎌を縄でしばり付け、当家にはかついだまま入る。葬式が終るとシンノウ、「引返しの膳」、酒などが出る。そのほか、葬儀にともなう習慣、禁忌などを述べると、「死人は北枕とする」「棺にはナタ(蛇)をおく」「棺の釘はナタで打つ」「先頭は履物を履いたまま座敷から出る」「夫婦の場合当人の相手は野辺送りをしない」「子供の死には親が野辺送りをしない」「葬式帰りは他家へ立寄るな」「神社へ三十五日あきまで行くな」「物を二人ではさむな」「墓に穴ができると人が死ぬ」「鍬をかついで家に入るな」「鎌はかつぐな」「水汲みの迎えはするな」等である(藤島一郎調査)。なお、潮来では死者が出ると、こ続オ1.- \,、をて一寸一一三i人人見か一か月か二か月の聞にあの世に行く道連れだといい、七人の死者が出るという。どうぎようしらにん同行」「七人同行」といっている(松崎松調査)。親が死に葬儀がすむと、「形見分け」といって着物等が葬式後の習俗と供養ゆずり分けられる(徳島)。「形見分け」とも「ユヅリ」ともいい着物等を分ける。昔は着物の時代であるから親のよい着物は生前から目をつけていたり、兄弟姉妹の多いところでは喧嘩ができる位であった(潮来)。大賀では、六日目に「タイヤ」(退夜)が行われる。当家が念仏の老人達を招き、老人達は念仏を唱えてご馳走になる。徳島では、家族の者が死亡すると、約一か月前後に、「ユミノキ参り」が行われる。当家は親戚一五1二O人位に日時を知らせる。昔は歩いて865