ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

俗鹿嶋市に通ずる坂を上り、ミダラシ(御手洗)に行き、水で身を浄める。次に裏参道から神宮に行き、神宮のお赦いをうける。奉納金は家によっ民て差があり、寸志である。お赦いをあつけたあと、全員で神宮に参詣し帰VIる。昼食の時間のときは、食堂を利用して全員にご馳走する。この「ユミノキ」参詣が行われないと、葬儀に関係する親戚の者は、神事に出席できないから、進んで参加する。葬式の次の日は墓参り、死者への供養は、地域や家によって若干異なる。潮来六丁目では、初七日、三十五日、百か目、新盆、一周忌、寒参りがある。寒参りは、寒入りの日に組内で新仏の墓参りをする。現在も行われている。宮前一丁目では、初七日、三十五日、四十九日、新盆、周思、三年忌、七年忌があり、三十五日はぼた餅をつくり、大先導、先導宅に配る。ほかは塔婆供養をする。潮来(四丁目)では、七日あき、三十五日、四十九日。現在四十九日までの供養は葬式の日に一緒に行う場合が多い。一度寺の外に出てからまた本堂に入り供養を行益三七日あきの夜は、当家と近親者で、手伝ってくれた家いえにお礼廻りする。三十五日には、薬草履にぼた餅をつけ、竹にはさんで墓に供える。針の山を登るためだという。四十九日は、餅をついて四九切れにつくり、寺の本堂、阿弥陀様に供え、供えた一切れの餅をいただき、家に持ち帰って食ぺる。}の行事をする家は少ない。百か日は、お寺で供養し、塔婆をあげて墓参り。一年忌は、近親者、知人、組内、商家ではお得意様を招き、寺で供養、墓に線香を手向けてから、旅館、ホテル、料理屈で食事をし、引出物を出す。現在はほとんど自宅では行われていない。三回思、七回忌、十三回忌は、近親者のみでの供養が多い。木碑を石碑にかえるのは、三回思か七回忌が終ってからが普通で、}れは昔土葬の866ため、すぐに建てると埋めた棺が腐り、石碑が傾いてしまうからである。三十三回忌からあとは、家の代もかわり、供養する家も少ない。また家を継ぐ者がいないところでは、先祖の墓が無縁仏になってしまうので、寺に永代供養を頼むこともある。神式の家の葬儀後は、翌日祭、毎十日祭(帰幽の日から一O日、二O日、三O日、四O日、五O日)、百日祭、一年、二年、三年、五年、十年十年十年四十年、五十年、百年祭とあり、以後毎一OO年に行リわれる。延方西区の五七忌(三十五日)には、親戚近所をよんでぼた餅をご馳走し、冥福を祈り供養するこの日には、草履にぼた餅をべったり塗って竹の棒へ吊し、墓にあげる。故人が針の山に登るためだという。現在は葬式の日に三十五日忌をすませ、ぼた餅のかわりに大福を配るところが多四L、。十九日がすぎれば、仏の魂が自分の家の棟を離れるとされており、}の日がすぎるまで毎日仏にあげ供えをする。大生原(水原)では、供養として七か目、三十五日、百か目、一周思、三年、七年、十三年、十七年、二十一年、三十三年、五十一年思等がある。三年忌あるいは七年思には、寺で塔婆をつくり供養。親戚、念仏講中の人びとを招待し、念仏供養を行っている。その他の年思は、新しい仏の供養のときに一緒に行う家が多い。死霊の去る日は四九日目といい、四十九餅を霊前に供えたが、現在は鰻頭で代用している。大賀では、三十五日あきのとき、藁草履に黄粉のぼた餅をつけ、青竹を割このとき、つてはさみ、墓に供える。なお、新盆の供養については、第一章第三節「盆の行事」を参照。