ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
原始・古代E第1 -17図弥生人の生業暦(数字は労働量の総体を100パーセントとした場合における各生業の労働量の割合〔推定〕を示している)暮しのなかの祭原始共同体における祭の形態は、数千年の流れの中で作り上げてきた縄文文化独特のものをもち、後期に至って偶像化を伴う集大成がなされ、それが継続しておこなわれていたことは想像できる。れている祭の中に新しい農耕儀礼を取入れることが、」のような伝統的におこなわどれだけ大変だったかが再葬墓に現れている。再葬墓は、縄文時代の埋葬形態の中に、新たと考える。しい様式である査を埋納することで、新しい文化の受容を辛うじて補っ仮説になるが、安定した縄文時代晩期が続くなかに、突然新しい文化が進入した。多分一度に全てが流入したわけではなく、段階的に入ったであろうことは想像できる。新しい文化を受入れた縄文時代晩期の人達にはどのような反応があったであろうか。管理栽培が定着していたこの76時期であるから、稲作を受入れることはそんなに抵抗がなかったのではないか。問題は、稲作にともなう祭の形態である。}れまでの祭杷とは異なった新しい儀式に対して、どのような反応があったのか想像できないが、人びとは長い習慣の中で生活し、その生活になじんだ儀式をとうてい消し去ることはできない。}れに力が加わり強制的におこなわれた場合でも、初期においてはかなりの抵抗がある。稲作技術の伝播が力によるものでない限り古い儀式が継続されるであろう。接触文化の問題は、新しい文化が古い体制の中にそのまま受容することは、力で制圧されない限り殆どありえないことで、弥生文化は、単なる稲作だけを伝えたのではなく、稲作に必要な新しい儀式と、これまで行ってきたものとを折衷できるとすれば、埋葬だけの可能性がある。穴のなかに新しく入ってきた弥生式土器を入れることで、妥協できた可能性がある。ということは、生活では、なお縄文時代晩期の土器を使用していた可能性がある。する必要性がある。もう一度、晩期の土器が採取される遺跡を再検討この状況から、弥生時代初期の集落がなかなか発見されないのは、生活様式の折衷として、墓や祭杷には新しい弥生土器を使用したが、生活の中では、なお、縄文土器が使用されていた可能性があり、もう一度、縄文時代晩期の土器が出土する遺跡を検討する必要がある。遺跡が増え、比較的広がりをもった中期後半(二世紀頃)の女方V式、野沢E式、足洗式期でも、集落は美浦村笹山遺跡、竜ヶ崎市屋代遺跡、同長峰遺跡、大洗町髭釜遺跡で数軒が確認されているにすぎない。