ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
第二節石仏・石塔信仰の対象として、また信仰に関連して石造品が造立石造品の造立されるようになるのは、主として中世の鎌倉時代以降である。茨城県内でも、地蔵尊、五輪塔、宝匿印塔、多層塔といった石仏・石塔がみられるようになる。しかし、この段階での造立は一般に筑波山西・南部に多く、潮来地方にはまだこの時代のものは未発見であり、また造立されたとしてもそれは在地領主や豪族層による造立であって、庶民信仰の対象とはいい難い。中世から近世初頭におよぶ板碑は、その明瞭なものが江寺の道慎坊にある。板碑は板石塔婆で、死者の追善供養や「逆修」として生存中に造立される。潮来地方の板碑またはその形式を踏む石碑類は、いずれも筑波山麓平沢から産出する黒雲母片岩でつくられている常総型板碑で埼玉県秩父産の緑泥片岩による武蔵型板碑はみられない。常総型板碑にしろ武蔵型板碑にしろ、それが潮来地方に造立される条件の一つに、石材の運搬や製品の購入がある。したがって当時の板碑造立もまたこの地方では庶民によってのものとは考え難い。ついでのことになるがこの板碑仰が後世に庶民信仰の対象になることは、現実にはあり得ることである。信信仰する人びとの結衆によって造立される日待・月待・念仏・庚申塔間などは、室町期あたりから茨城県内にもみられるようになる。しかし、民潮来地方でこのような傾向が出てくるのは近世初期からで、とくに大日第3章信仰・湯殿山信仰にその実態が窺われる。」の信仰が流布した結果として造立された石碑は、板碑の形式を伝承し、石材も黒雲母片岩を用いている。事例を所在と銘文・年紀で記すと次のごとくである。潮来地区五丁目浄国寺寛永五戊辰年奉崇湯殿山大権現御神仏辻村卯月吉田2西丁稲荷山公園奉崇湯殿山権現寛永十二年板久村念仏衆建之延方地区3延方農協倉庫前(山宗カ)奉口湯殿山南郷諸人二世本願敬白永三年丙寅二月廿六日大生原地区4大賀・於山(党字)湯殿山大権現可進寛永六年己巳二月こうした大日・湯殿山信仰による板碑形式の造立は、とくに寛永期に寛寛永3年湯殿山権現碑〔新宮〕第VI-55図877