ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
俗ぅ。それでもなお、一個人による造立がまだまだ困難であったことは、造立者がある信仰的な集団である氏子、檀家、講中によってなされてい民ることで明らかである。VI『潮来町の石仏石塔』には、町内の造立年代集計表が載っている。年号ごとの集計のため、造立数と年号年数の割合をみると、一か年平均で約一i二基の造立となるが、幕末の万延に三三基と多出する。}れは万延元年が庚申にあたるため、庚申塔の造立がとくに多かったからであろぅ。庚申塔・甲子塔はその干支にあたる年、月待塔はその日にあたるときに造立されるのが普通である。そのほか、飢鐘、世情不安に際しての造立はこの地方では特徴的ではない。また農業・運搬の使役である馬の供養の馬頭観世音塔は、県北地方にみられる馬力神と刻む例、馬頭観音像の例もみられない。明治期以降の軍馬供養としての馬頭観音塔も顕著ではない。造立される対象が信仰の表現として時代相を反映することはいうまでもなく、最近の例として水子地蔵の造立が数を増している傾向が窺える。石仏・石塔が「供養」として造立されるのが全体の中で圧倒的に多く、種類別には庚申塔の一二五基がもっとも多い。庚申塔は、「庚申」の文字塔のほか、青面金剛像や「猿田彦大神」と記された石仏(神)塔も庚申信仰によっている。また、月待信仰として十七夜塔、十九夜塔、十夜塔、二十三夜塔、二十六夜塔、如意輪観音像、子安観音像、地蔵像などが造立される例も多い。これらの講による信仰については第三節でふれることにしよう一。信仰による石仏・石塔は、その造立される場所にも注意する必要がある。神社、寺院の境内に多く、また石塔場として集合する場合もある。もちろん、他所にあったものが何等かの事情でこのようなところへ移動することもあるが}の場合でも信仰の対象として粗末には扱わないか80らである。路傍の石仏・石塔といわれるように、道端にも町の辻等にもみることができる。しかし、その造立される場所には何等かの意味があるはずである。神社、寺院、墓地のほか、村の境界、分かれ道、三文路、町の角といった場所が多く選ばれているのは、そこが聖地であり霊地としてみなされているからであろう。道祖神や道標はとくに道と関連するのは当然としでも、村の人びとの心意に造立される場所が、聖地・霊地としての認識があったことは推定できる。年中行事の人形送りに際し、送り立てられるところもまた同様である。