ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

第三節さまざまな講講とは、講と称している結社集団のことで、大別する講とその種類と二種がある。付は経済的動機で結集する頼母子講、無尽講など、口は宗教信仰上の目的を達成する信仰的講集団であるoHは金品融通のための講や相互扶助の共同労働組織のユイやモヤイにまでひろまっている。発生的には同の宗教信仰的な講の発展過程の中で出現したものである。講の起源は、仏典を講義研究する僧衆集団名から出ており、それが民聞に浸透するにつれて在来の信仰集団に講の名称をつける風がひろまって一般化した。信仰的な講は、地域社会に自生したものと、外から導入されたものとに分類できる。自然発生的な講は、たとえば水神講、田の神講、山の神講のように原始的な民俗宗教を伝承し、祭杷の組織や機能が伝統的土着的で、運営の主体は地域住民そのもの、格式の低い民間の小嗣が対象となる。外から導入された講は、洗練された形の神道的祭杷集団、仏教的信仰集団で、社・寺格が高く結成の範囲もひろくなる。専門の司祭者などが仰運営の主体となって活躍し、地域講中の人びとは副次的役割を果すだけ信となる。また、外部導入によって形成された講には、外来伝道者の布教間活動によるものと、地域社会住民の需要で勧請される二種がある。伊勢民講、熊野講、金毘羅講、秋葉講、富士(浅間)講、御獄講、羽黒講や題目第3章講、観音講、地蔵講、不動講、成田講などである(以上、桜井徳太郎「講」『日本民俗辞典』を参考)。潮来地方に、}うした講的集団が形成されるのは、おそらく中世末期頃かと推定されるが確たる証拠はない。現在のところ寛永期には講的集団の存在が明らかである。たとえば、寛永期の羽黒山信仰による板碑形式の碑銘に、潮来地区で寛永五年の碑に「板久村念仏衆」、延方地区寛永三年の碑に「南郷諸人」とある。また、板来地区覧文四年碑に「庚申結衆」、覧文五年月待塔に「二十日待結衆」、同七年月待塔に「一結善女」、元禄五年月待塔「十九夜待同行」、津知地区の板碑形式碑に「発願女十七人同行」、延方地区元禄の巳待塔に「己巳結衆」などの文字がみられる。したがって、寛永期の「衆」「諸人」から寛文1元禄期の「結衆」「一結」「同行」の表現が、以後「講」の名称が盛行する傾向がわかる。近世以降の石仏・石塔から信仰対象が判明する講名称を拾うと、次のょうである。塔〔新宮〕待巴第VI-60図881