ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
第四章祭礼と芸能第一節素鷲熊野神社の祭礼素鷲熊野神社は旧潮来村、旧社格は旧潮来町の鎮守で華麗な町方の祇園祭郷社である。社名のとおり、素驚神社と熊野神社が明治十年に合併、合併社号となった。古くは、牛頭天王と熊野権現を称していたが、神社の名を付したのは天保十年(一八三九)とい‘っJ。牛頭天王とは、もとインドの祇園精舎の守護神であったが、中国におうでんいて、疫神、疫病除の神として尊崇された。中国新彊省和闘の牛頭山かせんだんら熱病に効のある栴檀木が産出し、この山そのものを神として崇めたのがそのはじめらしい。インドの密教や中国の陰陽道と結合しながら日本に入ったといわれている。日本では、牛頭天王と素鷲嶋命は同体とされ、祇園社、天王神、八坂神社、素鷲神社などとして全国に杷られている。祭礼と芸能この神社の祭礼としては、京都八坂神社や愛知県津島神社の祇園祭などが著名である。熊野神社は、おそらく中世には勧請祭杷されていたと思われる。いBつまでもなく和歌山県の熊野三山を中心とする信仰で、熊野の御師の活発第4章な行動によって、全国的な信仰を得、同時に各地に把られるようになった潮来の祇園祭は、例年八月八日を中心に前後三日間行われる。天王祭、祇園祭は六月1八月に行われるところが圧倒的に多く、季節的にも疫病除けの時期に相当する夏祭りの典型である。茨城県全体にわたって行われる祭礼ではあるが、大きく県北と県南の二つに分けた場合、県南の祇園祭の方がより数も多く、かっさかんである。潮来の祇園祭が、数多くの山車をともなって賑やかに展開する状況は、水戸の吉田神社、郡珂湊の天満宮祭礼(八朔祭)、石岡の総社祭、土浦の祇園祭などのように、町方祭礼の典型といえる。すでに近世から行われているこの祭礼実施には、尼大な経費を必要とし、同時に祭礼全体として、また参加町内において、詳細な祭典規約も必要とする。とくに近世における潮来の発展について祭礼も盛大化し、現在に伝承されたものであろう。以下、平成五年の祭礼見聞と平成六年の祭礼記(本戸健「潮来祇園祭」『水郷の民俗』第二号)を引用し、祭礼の状況を概観しよう。祭礼の名称は、祇園祭・祇園祭典・夏祭などとよそうぴきらんぴき一年ごとに「総挽」と「乱挽」があ祭礼の執行と規約ばれている。り、「総挽」のときは各町内の全山車を出すが、「乱挽」のときは、山車の参加が自由である。平成五年は乱挽、六年は総挽であった。まず、祭礼執行の規約が次のように定められる。889