ブックタイトル潮来町史
- ページ
- 908/1018
このページは 潮来町史 の電子ブックに掲載されている908ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
このページは 潮来町史 の電子ブックに掲載されている908ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
潮来町史
俗民羽-天王社による紙固め浜下りO天王社以外の浜下り浜下りも、」のようにみると県南型に入ることになる。この一帯を今も天王原という。さらに元禄九年(一六九六)徳川光聞によって今潮来の浜下りは、毎年前川において神輿もみが行われていたのだが、現在は川もせまく改修され、かっ汚染がはげしいので実施されない。平潮来の牛頭天王は、「潮来村之鎮守牛頭天王申年より開眼」(「探旧考証」)とあり、草創の伝説は次のご文化四896とくである。『新編常陸国誌』上巻(補)に、「文治三年浪逆浦ヨリ出現ス」とあり、『茨城県神社誌』(旧)には、「口碑及塙浜下り祭の分布村口碑に拠るに此神文治三年浪逆浦より出現。鹿島郡塙村に鎮座す。大宮司これを奉肥す。然るに神或は時に崇りを為す。因ってこれを水中に投ず。後漁人網を下して復之を獲たり。乃ち辻村天王原に奉す。既にして嗣を営第VI-74図みて当村に遷し杷る。実に文治四年六月也」とある。前田香径執筆の「茨城の伝説」四八三(「いはらき」新聞)の概要はごうである。天安年代(八五七1五八)潮来町の四丁目に、磯山源兵衛という漁師がおり、浪逆浦で引網を行っていたら、突然網に重いものが入った。引き上げるとさん然たる光を放って目もくらむばかりであった。みるとそれは神輿なので、船を潜ぎ返そうとしたが霧のため方向を失い、ようやく稲井川の西岸に着いた。その後文治四年(一一八八)に神輿は四丁目の十郎屋敷へ移され、の大六天山に選座した。十郎屋敷は今も天王岸という。神輿は六月七日成五年のときは、十番の常陸利根川で行われた。なお、前川も常陸利根川も古くは霞ヶ浦の範囲であった。に行なった塙村(鹿嶋市)のもので、若者たちがかついで霞ヶ浦へ入ったところで、浜下りの祭礼・神事には著名な例ほど漂着神(寄り神)、海ところ、浅瀬だと思った場所が意外に深く、若者たちは神輿を捨てて泳このことが判明したので、潮来では神輿を塙村へ中出現仏(引上げ仏)の伝説をともない、あるいはその伝説を背景としてぎ帰ったのだという。返し、今のは安永二年(一七七一二)の製作と伝えられている。行われていることが多い。以上の伝説で、社の神体は漂着神で、その発見者は磯山源兵衛という