ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

ことになる。磯山源兵衛家は四丁目に現存し、当主は祭礼の中で重要なそ孫、頭に白布の鉢巻を施し身に同じ浄衣を着け(維新後麻上下に改む)手の手には小さなサデ網を模したものを持つのである。役割りをもっている。出社神幸と還御の神輿上に磯山家当主が乗り、}の習わしもかな裸体の壮夫数百人鼻きて水中に入り探み合ふこと良久し、了りて神輿をに文手(小網を云ふ)を持ち神輿の台に分乗し、無数の壮夫之を界き、下山して仮宮に遷御す、翌七日源兵衛裸体にて前述の如く神輿に分乗し、り廃れた形となっているが、記録によるとかつては次のようであった。入ぺ此時源兵へと申者神輿へまたがり乗候て、高倉胤明「探旧考証」によれば、「毎年六月七日、祭礼前川へ神輿をはやし申を致下知候、仮宮の前の河岸に安置し祭典を執行す、此を渚祭と云ふ」と記している。とある。また、固定ハ右源兵へ先祖まて川之中より以つピ網-一て引上候調れに御座候由」だ(誰の意)が乗ったさらに前記した「茨城の伝説」には、「:::その神輿の渡御には『乗磯山源兵衛が乗ったとさ』と昔から、っ,hp』世hつf#IRJιほかの記録には、「当初神体を掬ひ揖げし即ち六月七日子供達がはやしたてる風習がある:::磯山源兵衛は仮宮へ下山と帰還のを祭日と定め、予しめ四町目河岸に仮宮を造り、六日の朝、源兵衛の子祭礼と芸能第4章さいは、麻上下を着て、手に網を持って神幸に供奉する恒例であったが、その子孫も代々先祖の行った通り、前川(昭和24年)と常陸利根川(平成5年)での神輿もみ神輿の後乗をして、若者逮を指揮した。そこで女や子供は『乗った、乗った、誰が乗った』と嚇したてるのだという。面白いのは磯山源兵衛とその子孫は出御のときサデ(魚を扱む手網)を持って指揮し、祭典後は樟一つになって神輿に乗りH川洗い式Hに臨むことである。現在その育の磯山好文氏は、羽織の紋付の礼装で供奉し、)の奇習は廃れてしまったらしい」と述ぺられている。このような神(神体)の発見者、まJa第VI-75図たは発見者の居住する町内が、祭礼に際して特権を有しないし特別な位置をもっ例は、那阿湊の天満宮祭897