ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
栖町)から公儀へ所領地をめぐって願い出があり、幕府で評定の結果、七月二十七日「水戸南領延方地に属す」という裁決があった。里人は村をあげて喜び、}の日を記念とし鎮守社頭に集い、相撲祭を奉納して感謝を捧げた。この相撲祭を「勝ち相撲」と称した。江戸勧進相撲の各式を得て、毎年江戸から御公儀、立行司木村庄之助が来村、「四十八百一」の古式奉納相撲を斎行してきたという。ところで、延方相撲は鹿島吉田神社の例大祭に行われる奉納相撲である。この奉納相撲が延方相撲と同じように盛大なのは隣村北浦村内宿にある稲荷神社で、通称化蘇沼稲荷大明神または関取稲荷と呼ばれている。延方相撲に近い位置に、同様の奉納相撲があることにまず注意する必要があろう。全国的にもまた茨城県内にも、盛大な行事という点を除けば、各種の奉納相撲が存するのは衆知のことである。そもそも相撲自体が年占いのような神事として次第に発展してきたものであり、延方相撲もまたこうした奉納相撲の一環として、捉えなければならない。かざまつ各種奉納相撲の中で、県内南部にとくに顕著なのが風祭りの農耕儀礼の一つで行われる相撲である。今日では大分廃れてしまったが、なお相撲場が残っており、かつて風祭りの相撲が行われたところだと教えられることが多い。祭礼と芸能茨城町小鶴の諏訪神社では、毎年二百十日の風祭りに、農業厄難除けとくに台風の被害除けとして祈願祭があり、相撲大会がある。伝承によると、享保十三年(一七二八)長野県の諏訪神社本社で、八月二十七日に全国相撲大会があり、小鶴から若者が選ばれて参加した。その帰りに神第4章札をさずかり、県七O分社の一つとなり、以後毎年相撲大会を催すようになったという。もとは大人の相撲で、明治以後も引継がれたが昭和五十五年頃から子供会中心の行事となった。境内に昭和三十年の記念碑があり、会員の名とその醜名も刻まれている(『茨城町史地誌編』)。『茨城県神社誌』(新)によれば、鹿島吉田神社の例祭は「七月二十七日延方総鎮守風祭古式奉納相撲祭と呼ぶ」とあり、風祭りと相撲がともにある点では、県内各地の事例と無関係ではない。もう一つ、現社号は明治十年(一八七七)で、「宝永頃水戸領鎮守録」では、延方鎮守は諏訪明神諏訪八幡吉田明神とあり、吉田明神について「是は先年諏訪明神-一而別社-一御座候処義公様御代合殿ニ被仰付吉田明神と神号仕直し被遊」とある。相撲神事の際「八幡幣」が登場するのは、「諏訪八幡」の「八幡」のことではなかろ、AOBつカそして古くは「諏訪明神」が杷られており、奉納相撲は、諏訪明神への神事であったかと推測される。すなわち、寛文十二年の判定を契機として、諏訪本社と密接な相撲がはじめられたのか、または以斗削からあった諏訪明神と相撲について、判定のことが付会したかであろう。911