ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
俗民第四節稲荷祭と水神祭VI第三章第二節の「石仏・石塔」でふれた「待」、待講と社嗣の祭り同章第三節で述ぺたさまざまな「講」は、その字義のような区別は実態として困難である。待は十九夜待や二十三夜待、あるいは巳待や子待のように月待・日待のごとく、その月の夜を待つまたその日を待つという点では字義のとおりである。しかし、その行事の実態となると「マチ」つまり「祭」の様相を呈しており、民俗学上でも二様の見解がある。潮来地方の待・講もその日の行事は、旧来の方法とはかなり変更をきたしたばかりでなく、区別はできないものが多い。さらに実態としては、小規模な祭りと区別することはむずかしい。このような状況の中で生まれたのが「待講」といわれる行事ではなかろうか。稲荷社の祭りが稲荷講ともいわれ、水神講が水神祭ともいわれるのも、実態としてはその行事が大規模か小規模かの区別しかなし得ないのである。ところで、すでに第三章第一節i第三節で述ぺたように、潮来地方の人びとは実にさまざまな神を杷り仏を崇めてきた。}れにはまた多様な祭りがともなっている。そのすべてを記すのは困難なことである。したがってこの節では、潮来地方でもっとも数多い稲荷社とその祭りと、水神社とその祭りをとくに取り上げることとしたい。稲荷社は著名な京都の伏見稲荷大社の影響が強く、912稲荷社とその祭り「神社明細帳」に載る分霊社だけでも三万余にのぼるという。したがってその他の小社嗣を加えたら尼大な数にのぼる。さらに各家の屋敷神として杷られているのは稲荷社が圧倒的に多い。現在、潮来町の水郷民俗学会が調査した地域で参拝されている稲荷社は、第WH17表のとおりで、潮来地区八、津知地区六、延方地区一て大生原地区七、合計三二社で、その他延方地区の蚕祖保もちのおおかみ食大神や妻恋神社なども稲荷社とみてよいものであろう(藤島一郎「潮来の稲荷信仰」『水郷の民俗』創刊号)。稲荷社および稲荷信仰が、当地方のみならず全国的な普及をみた理由は、かならずしも明らかではないが、」の神が農業豊穣の農業神のほか商業神、漁業神など各種生業の神としてひろく尊崇されたことは確かである。また稲荷神の使わしめは狐とし、または神が仮に姿を託したものと認めることも全国的に共通で、社前にはほとんどすべて神狐の像が奉納されている。イナリの語源はイナリの約、イナニの転化との説もあるように、稲作農業神としての性格を有しており、狐を使わしめまたは神の姿とみるのも、元来回の神であったことを示している。祭日は潮来地方の場合すぺて二月初午の日であるが、全国的には秋にも行うところがある。)の春秋二度の祭りは、春が農耕の予祝祭、秋が収穫祭であり、春の田の神、秋の山の神の構図を示している。したがって田の神から稲荷信仰が生まれ、さらに漁業神や商工業者の守護神へという道筋の展開が考えられるという(桜井徳太郎「稲荷信仰」『日本民俗学事典』所収)。祭神の表記は、倉稲魂命、字賀魂命、字加之御魂命で、いずれもウカうけもちのかみみけつのかみノミタマノミコトと訓む。ほかに保食(大)神、御食津神の場合もある。