ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
俗民第二節ひろがる伝説VI伝説はよく昔話や歴史的事実として混同される。伝説の特徴と分類伝説の特徴としては、第一にその地域の特定の山川湖沼や淵、岩石や樹木、塚や洞穴、地名や人物などについての話で、人びとは自分の土地固有のものとして信じられていること、第二に伝承者の話し方には定型がなく、内容も長短自由にしかも昔話のように「語る」というより、「話す」ものであること、第三に伝説はそのところの知識人等によって合理化されたり、歴史との整合性が図られたりもするので、樹木の枝葉がのびるように変化・拡大することなどである。こうした伝説は、日本中や茨城県内に無数といってよいほど存在するのであるがこれらを整理すると昔話のようにいくつかの類型や分布が認められ、総合して、付山川湖沼、岩石、動植物などの自然現象に関するもの、口塚、墓、橋など人為的に発生したもの、および歴史上の人物に関するもの、白社寺嗣堂、神仏、祭礼、禁忌など信仰に関するものに分類できる。付を自然伝説、口を歴史伝説、臼を信仰伝説といっているが、口を分けて、社会伝説と人物伝説に分類する方法もある。ただし、Hi臼は、それぞれにかかり合うことも実際には多く、明確に区別して述ぺることは困難を生ずる場合もある。潮来地方の伝説は、すでに記録されたものもあり、またかなり採集も進んでいる。まずその事例を述ぺることここでは、適当に項を設けて、にしよう。928えぼしかまっ〔烏帽子掛け松〕小宮山楓軒編「水府志料」に、「源頼樹木と塚朝鹿島参詣の時、烏帽子をかけ給ふ松なりと申伝ふ。今は枯れて別に植次ぎし物にて、土人曲松と呼ぶ」とある。この辺を「曲松」といい、また「白幡山」と称しているという(茨城新聞社『茨城の伝説』)。また草野武一『古高郷』(郷土古高編集出版委員会)は、覧延元年(一七四八)烏帽子掛松が枯死したので小松を植え、成長して美観を呈したが、またもや枯木となったので明治元年(一八六八)三代ζしかげまつ一説に腰掛松というと記している。目を植えた。いっぽんまつ二本松〕古高の一本松は、丑三つ頃になると白髪の老女が松の上に現われて、第を手にしてざあぎあと掃きたてる。近所からみてはわからなともしびいが、遠くからみると一本松に灯火がついている(『古高郷』)。〔おおき森の松〕大賀の立野の先に、おおき森の墓があり、その少し先に馬頭観世音の碑があって、}こに大松があった。枝打ちをしたり、幹に鋸を入れたり鎌で切ったりすると、アカ77(血)が出るといい伝えられていた。昭和四十年頃まであったが松食い虫のために枯死した(藤島一郎調査)。〔旗掛松〕源義家が東国征伐の折、浪逆浦まで進軍したところ、暴風雨にあい、船が漂流して水原の岸まできたとき、白旗が飛んで岸の松にひっ、必、必つ,-。AMAHNJJ}の松を旗掛松といい、危難をまぬかれた義家は上陸して宿り、この地を「旗替」とよんまた白旗をひるがえして進発したので、でいる(『古高郷』)。ちよくしっか〔勅使塚〕いつのことかは不明。勅使が鹿島社参の折、行方の海を航行して延方の津に至ったとき暴風雨にあい、船が転覆して亡くなったのを