ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
俗第七号)に風土記の「倭武天皇」伝説一七か所とほかに一ニ二か所を載せ、佐藤次男「漂着神の研究」(『茨城の民俗』第九号)では、風土記以外茨城県民内で六Oか所が指摘されている。『常陸国風土記』以外の潮来に関係する伝説は、次の二つがあり、神VI社の創立の由来である。築地の熱田神社。日本武尊が東征のみぎり、」の地に寄られた。眺望絶佳な高燥の地を選んで戦捷祭を行い、武運長久を祈り、とくにこの地にあって尊の命にしたがい、東征のために功績のあった三十蕃神を賞め讃えられた。村人は、あとその駈を築地と称し、大同年中に神殿を創立し、日本武尊を祭神とし、築地大明神とよんで尊崇した(『茨城県神社誌』)。釜谷の聾森神社。日本武尊東征の折、みずかめ一つの水盆この地で休憩され、を遺された。よってこの村では、水貧を奉戴して鎮斎した。このためここを盆森というのである。創立は不詳、大同元年再造営と伝える(『茨城県神社誌』)。〔弘法大師〕全国に多いこの種伝説は、弘法大師と名が出るものと、大師様のみのものがある。区分して記すべきであるが}こではあわせて記すこととした。古高のわらび大師昔、ある旅のお坊さんが}の地方のどこかよいところにお堂を立てたいと、方々の山や谷を歩き、四十七谷を越えて探したがよい場所がない。あと一つ「四十八谷目」にしようと古高の道を歩いていたが日暮れになり、一夜の宿をとるため食ぺ物を求めていた。すると道端の畑に里芋がつくられており、そこに仕事をしているお婆さんがいた。「お芋を少し分けていただけませんか」と声をかけると、「この畑の芋は石芋で、堅くて食べられないのです」と分けてくれません。仕方がないと歩き出し、やっと一軒の家がみつかり、一夜の宿を願いま930した。そこの老夫婦は、「こんな貧しいところで、何もありませんが」と心よく迎えてくれた。やがて夕飼の仕度となったが、味噌汁に入れるものもなく困っていると、お坊さんが「そこにわらびがあるではありませんか」と教えた。お婆さんが、わらびはアクをぬかないと食べられないことを告げると、お坊さんは、杖を取り出しお経を唱えながらわらびの頭をなでた。すると不思議にもわらびのアクはぬけ、その晩はおいしい味噌汁ができた。それ以来、古高のわらび大師のまわりのわらびは、あくぬきをしなくても食べられるようになり、石芋だといったところの畑の芋は、本当に堅くて食べられなくなった。お坊さんは、弘法大師だという(井出せつ子「わらび大師」『ふるさと潮来』第七輯)。お大師様とさつま芋潮来の小里付近は、畑の多いところだったが今は宅地化している。あるとき、お大師様がこの付近をとおったとき、どこからともなく、さつま芋をふかす、おいしそうな匂いがただよってきた。その匂いをたどって行き、その家でさつま芋を所望したところ、が家りのが人りは;6> \,、、ろ汚tいし、はろさ嘘つをまい芋つがてで与きえるなだかけつでた、。それ以来、小里の畑からは、よい芋はできなくなったといわれている(松崎松「お大師様とさつまいも」『水郷の民俗』創刊号)。みUもとのよしいえ〔源義家〕義家関係の伝説は、関東・東北地方にひろく分布し、とくに茨城県内には色濃く分布するので、そのすべてを採集することは困難といってよいほどである。昭和九年、山田巌は『茨城教育』(第五九四号)に「附録」として「茨城伝説上の八幡太郎」を収録、さらに昭和十四年の『茨城県総合郷土研究』(下巻)に「八幡太郎伝説」五六か所をとりあげている。近くは、安部元雄『旅に出た八幡太郎』に七五か所をあ