ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
昔話・世間話と伝説第5章げ、すぐれた研究を発表、また赤城毅彦「八幡太郎伝説と茨城県」(『茨城の民俗』第三一号)といった研究もある。県内の義家伝説は、主として県北部に多いが、石岡美野里友部辺には、古代官道に沿って、または古代官道跡の「五万堀」の由来についての伝説が分布している。潮来の義家伝説は、「旗替の里」「旗掛の松」についてはすでにふれた否'Jイ京jfd手dLV占へ‘FSげふtd‘キl-b耳4-A・dyイA FS主fζf-石J佐町ペρ/.,44四戸勿6、bー'の駒長で留品石℃次の事例をあけsょっ古高の猪ノ山北寄りの山腹に駒留石がある。石の大きさは畳一枚よりは小さく、表面に馬蹄の跡のような凹みがある。後三年の役を終えた義家が京都への帰途湖岸道路を南下してくると、前面に敵が現われた。義家はこの石に駒の蹄をたてて戦いの計をねり、敵と戦って勝利した。氏神八幡の加護によるものとして社をたてたのが八幡様で、駒留このときの蹄の跡である(『古高郷』、高野内秀雄「駒留石」『水郷の氏俗』創刊号)。また「駒踏みの石」ともいう(浜野元市氏による)。石は、義家の守護仏「旗掛松」「旗替の星」とも関連する。義家が奥州征伐辻硯宮の神体(涼知尋常小学校「郷土誌」より)の折、鹿島神宮に戦勝祈願に行くため、北浦を渡ろうとしたが嵐のため渡航が不可能となった。このとき義家は、弘法太師作と伝える守護仏の観世音菩薩を安置して七日七夜の祈願をした。}の観世音像は約五・五センチ、天喜二年(一O五四)に冷泉天皇から義家に武運の守護仏として賜ったものだという。この加護によって無事北浦を通過することができた義家は、観世音像を水原の愛染院に寄進した。その後愛染院には如意輪観音が奉安され、観世音像はその胎内仏となり、}のときから母子観音、安産子育観音としてひろく信仰を集めるようになった(『国鉄鹿島線沿源z習t民頼2俗朝;弓茨城県内の頼朝伝説は源義家伝説ほどに多くはないが、第VI-97図鹿島神宮、筑波山、酒列磯前神社などへの参詣・代参の話に関連し、土AEた稲敷郡美浦村、桜川村では「鎌倉河岸」の地名にも関連して登場し、その妻政子の名が出る場合もある。潮来では、前出の「烏帽子掛松」の伝説が古くから伝わり、すずりのみや硯宮について次の伝説がある。また辻の硯宮神社の硯治承年中、源頼朝が東征の折この地に至り、鹿島神宮931