ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

俗民VIに祈願する祭辞を書、』F -OLJιその硯を辻の今宮八幡宮に奉納、のち元禄中水戸光園大生殿神社〔大生〕が「硯」をみて、蹄:れ石Zはで中あ国ろにう産とす、る神馬ぱこ社の神体とし、社名も「硯宮」と改めた第VI-98図(佐竹義能「衝邑硯宮之碑」)。一説に、頼朝は日頃鹿島神宮を尊崇したが一流の旗を寄進したときに、」の地にあった古い字を大書した。その時の硯を神社に奉納して神体としたのだという(『茨硯を使って、旗に文城の伝説』)。なお、この「硯」「馬蹄石」は、古墳時代の石枕であることが判明している(佐藤次男「徳川光園と水戸藩領内の出土遺物」『大川清博士古稀記念論文集』所収)。〔水戸黄門〕水戸光聞は、その残後からまだ三OO年を経ないが、講談やテレビで全国を漫遊するようになり、伝説も茨城県やその周辺にひろく分布するようになった。}れまでに、前田香径「義公民話の蒐集について」(『茨城の民俗』第二号)。藤田稔『常陸の伝説』の中に若干載せられているが、まだ集大成されていない。潮来には次の事例がある。932潮来のあやめ水戸黄門が巡遊の折、潮来の地で大きな真菰の中で美しい娘が洗濯しているのをみて、「潮来出島の真菰の中にあやめ咲くとはしほらしゃ」の歌詞をつくった。そして、京都の扇子屋に白扇千本を注文、自らこの潮来節を書いて全国に配ったという(『国鉄鹿島線沿線の民俗』)。}こでは、社寺詞堂と神仏関係の伝説を扱うが、す社と神・寺と仏でに述ぺたほかの伝説に登場した事例は略した。また素驚神社については第四章「祭礼と芸能」第一節「素鷲熊野神社の祭礼」に述ぺたとおりである。おおどの〔大生殿神社〕慶長十九年(一六一四)大坂の役に、城主大生定守公が出陣の途上、駿州(静岡県)藤枝の宿で流行病に朴れ、遺言に、後世この病に躍るものがあれば、}れを救おうといって亡くなった。里の人はこれを徳として塚の上に碑をたて・て杷った。今も四月十四日の例祭のとき参詣した人びとは境内の杉の葉を迎えて家の門戸にさし、悪疫から護る習俗が続いている(『茨城県神社誌』)。碑は高さ二・二五メートル、角住角で「大生弾正定守石碑」とあり、明暦二年の建立(『潮来町の石仏・石塔』)。〔稲荷とキツネ〕稲荷神社は潮来町に数多く杷られている。稲荷神の谷属・使わしめとして知られるのがキツネである。特定の神社と結びつかないキツネにまつわる世間話は前記したが、}こでは稲荷神社と関係して語られるキツネの話をあげる。したがって世間話的な内容である。そったの稲荷延方地区宮前、下回の五衛門とよばれる屋敷跡に石の嗣があって、「そったのお稲荷さん」といわれていた。)こには昔、キツネが出てよく人を化かしたという。キツネの嫁入りの提灯がみえることもあり、子供らが竹の子をとりに行って森から出られなくなったのを