ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

助けたということもある。あるとき与衛門隠居の「ポコさん」というあだ名の親爺が、下の酒屋でコップ酒四、五杯を飲み、よい機嫌で夜更けの畦道をわが家へ急いだ。ところが稲荷の近くへくると、行けども行けども表通りへ出ない。疲れて寝てしまい朝日がさし目がさめると、田んぼの中にどろんこになって寝ていた。あわてて寒さにふるえながら家へ帰ったが、熱を出して寝こんでしまった。また都市計画の工事で稲荷が別の場所へ移されたが、稲荷のところに白蛇がいた。作業員が捕えて殺したが、作業を終って家へ向かう途中、自動車事故で死亡した。このため稲荷はもとの場所へ戻されるようになった(篠塚平一郎「そったの御稲荷さ昔話・世間話と伝説第5章ん」『水郷の民俗』創刊号)。前倉稲荷大賀の前倉に前倉稲荷がある。稲荷のキツネは子供が多千代目里稲荷〔牛堀町〕、aつb-0.ヵJJそのため、子供らに、近くの野山に働きにきていた人に乗り移り「キツネ窓き」を命じた。食べ物をたべさせてもら第VI-99図ぇ、もし腹いっぱいたぺて帰るときは、兄弟のためにご主人様から米一OO俵、赤飯一O段もらってこい。帰りにうしろ姿をみられることがあれば、帰ってくるな、ときびしかったといわれる(藤島一郎「前倉稲荷」『水郷の民俗』創刊号)。千代目里稲荷昔、瀬来と八代の境に「千代目里が稲荷」が杷られていた。八代村(牛堀町)の放蕩者利三郎と静六もよく夜の潮来へと通って、加』OLチトその日も料理屋ですっからかんになり、表へ放り出されたあと、ほろよい気分で夜中の道を家へ向かった。稲荷の森へきた頃には酔いもさめ、寒さで膝もがたがただった。そのときふわあっと女が現われ、「私は芸者のおこんという後家だが、潮来まで送っておくれ」というので、二人は今きた道を引き返したが、行けども行けども森の中、やっとあか一軒家の灯りがみえたので、その家にたどり着いた。それはおこんの家で、「お茶を一杯」というので上りこむと、お茶がお酒に変り、杯杯、そのうち呑めや唄え、「お風呂をどうぞ」といわれて、風呂につかのりながら酒盛りをしていた。突然冷たい水をかけられた二人があたりを見廻すと、太陽が南の空にのぼり、見覚えのある大勢の村人が笑いころギJ「」、こo'e守、、hwJJ二人は泥田の中に腰までつかっていたのだった。以後二人は二度と潮来へ遊びに行くこともなく、そオもまじめに働き出したという。から村人はお稲様に油揚げを捧げて化かされないようにお願いすることになった(前野寅雄採話)。〔弁天・水神と竜蛇〕稲荷社と同じく、潮来に多く杷られているのが弁天社、水神社である。弁天の使わしめとして蛇とくに白蛇、水神の化身とされるのが竜蛇である。竜蛇は川や池沼などに主として棲み、とくに蛇は崇りのおそろしいものと認識されている。安政四年(一八五七)古高組の長百姓、柏崎六左衛門の「書上」にも、「先年片岡池ニ毒蛇相住、私し先祖-一而殺し、池東(由市)之辺り山へ埋め、此地今ニ蛇妻坂と申、中興ニ至リ崇り在候趣-一て、享保年中石碑建立いたし趣申伝へ御坐候」と記されている。933}のような毒