ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
俗僧達の必死の雨乞いでもついに雨を降らせることができなかったのに、)の卜竜が: ::。民「あんたの言葉はありがたい。でもこの日照りは天災じゃ。わしはもVIうあきらめている」、「いやあきらめではなりませぬ。実はわたしは利根川に棲む竜神です。わたしが祈れば、かならず雨が降ります。早く村の人達に相談して、川岸に高いやぐらを組んでください」。そう話す卜竜の姿に、甚兵衛は何か尊いものを感じた。すぐに村長の屋敷に走り、村人達を集めてもらって、卜竜の話を伝えた。その話を聞いた村人達はさわぎ出し口々に卜竜をののしったが、みんなをなだめ、とにかくト竜に雨乞をやらせてみようということになった。川岸に組まれたやぐらの上に登った卜竜は、西の空に向かってキッと身構え、雨乞いをはじめた。やがて数百人の名僧達にもまさるお経を読む声が朗々とあたりにひびきわたり、村人達はぼろ衣をまとった、し治主しその堂々とした卜竜の姿にただ目を見張るばかりだった。お経を唱え終ったト竜は、ふたたび西の空に向かい、大きな声で叫んまだ。「天に在しまする雨の大神に告げ奉る。神は、川を識し、水を汚し、だいかんばっ水の尊さを知らぬ人びとに天罰として大皐魅を与え給うた。しかれども、これ以上の天罰はみるに忍び難く、人びとの苦しみももはや限界なり、}の水郷に雨を降らせ給え」。この卜竜の願いによって、いかそのほえるような、怒るような卜竜の声は、西の空の彼方へと流れていった。すると不思議、卜竜の声が村人達の耳にまだかすかに残っている聞に、西空から黒い雲が起こって押し寄せ、大空をおおったかと思うと大粒の雨が降りだした。村人達は手をとり、抱き合って喜んだ。次の瞬間、人びとはやぐらの上の卜竜を伏し拝んでいた。やぐらの上にピカッと稲妻が走り、ト竜の姿が光り輝き、それを仰ぎみる村人達に、卜竜はいった。「さらば水郷の村人達ょ。利根川や震ヶ936浦の水を識すな。水の尊さを知れ。甚兵衛ょ、さらば」。卜竜の姿は消ぇ、竜が天に登っていった(字野沢竹重「利根川の竜神物語』『ふるさと潮来』第四輯参考)。〔水原の法華堂・毘沙門堂〕文永二年(一二六五)鎌倉から移居した白井国光、横山勝光は、日蓮上人の直弟子日門を招請し、水原の台地横山の地に一字を建立し、本国山妙光寺法華堂と称した。常陸国日蓮宗最初の寺である。その後正応年中、三世日正のとき隣村築地に移した。前の建立の地は「法華堂」といわれ、今も地名に伝わっている。また水原の毘沙門堂は、やはり白井国光が鎌倉から移居する際毘沙門天一体を守り本尊として奉持してきたのを杷ったといわれ、その後堂再興のため築地の妙光寺へ納めたという。今は水原に杷られており、正月三日には念仏講中が集まって祭りをしている(浜野元市採話)。〔地蔵尊〕難所延方の津と舟越地蔵尊延方はもと「延方ノ津」のあったところだが、難所であり、「勅使塚」の伝説に述ぺたような遭難がたびたびあった。頼朝が鹿島社参の折、延方の難所に至り、庄屋の五郎右かこ衛門に懇請して腕利きの舟子五郎兵衛を得て、無事乗り切ることができかたなみた。その褒賞として五郎布衛門に「難波」の姓を下され、臣下とした。難波が後の「方波見」姓である。また五郎兵衛には、墨付の小万を下された。家紋は「帆立貝」である。また九人の坊さんを乗せた船が難船し、徳島を経て息栖の賀村地先(神栖町)で沈没した。坊さんの墓は卵型の石で今も賀にあり、「九人坊主の墓」とよばれている。こんなことがあるので、高僧忍性が後深草天皇の勅命で、建長四年一体は大舟津の普渡(一二五二)鹿島神宮の御神木で地蔵尊三体を刻み、