ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
寺、一体は鹿島の普済寺、一体は洲崎の普門院普渡寺に安置した。洲崎の地蔵尊を「舟越地蔵尊」といっている。難所での難船は、鰐がいて船をくつがえし、人を食べるというので、地蔵堂の僧侶が経を読んで責めたところ一丈余の鰐が巨体を現わし、昔話・世間話と伝説.OI海道,z地三ゴ舟越地裁第5章鰐川へ退去したという。その後間和十六年八月には、快速船が転覆し、乗員七O名中四九人が鬼籍に入り、戦後は鴨猟のアメリカ兵が溺死したこともある(『古高郷』)。北向き地蔵eヲ-A..λv"昔、潮来の村はずれに潮路里稲荷(前述千代呂里稲荷)があり、その下(今の西町)に地蔵様がたつていた。その頃永山(牛堀)に金比羅大尽の邸があって、勘太という一人息子がいた。素直でおとなし延方普門院木像写)い若者に成長した勘太が、ある日父親の使いで潮来へ行き、用事をすませて浜町通りに出た。夕暮れの花街、「あやめ楼」の前で美しい芸妓をみた勘太は、もう半分夢心地のまま楼に入った。それからは、毎日通いつめるようになった。ある日母親が帳場のお金延方追分舟越地蔵尊道標,左を整理すると、お金と帳簿が合わない。息子の潮来通いを知っていた母親は、息子が勘当されるようになってはと心配のあまり、誰にも告げず潮来へ出掛けた。いろいろ尋ねたところ、茶店さむらいのおくま婆さんは、「そりゃえらいこった。潮来ちゅうところは、士かち芸者と徒士芸者と船頭芸者とたくさんいるが、その女は中でも器量のよ村はずれの横須賀のある茶屈に立寄り、い士芸者で、そげな女にかかり合ったら大変なことになりやすぺえ」と舟越地蔵尊(右、、,。γu・4dおろおろして泣き出してしまうと、「ぁ、そうそうこの村は母親は、ずれに大きな杉の木があっぺ、その木の下のお地蔵様は、目立たないが第VI-101図よく願いを聞いて下さるそうだ、よく拝んで願いをかけてみたらよかっぺ」というので、早速お参りをし、毎日熱心にお願いした。半年経って息子は遊廓へ行かなくなり、安心した母親がお地蔵様のお礼参りも忘れていると、息子はまた潮来へ通うようになった。あわてた母親が、お地蔵様へお願いに行くと、お地蔵様はくるりと北937