ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
俗VI民第VI-102図の方へ後向きになる。何回直しても同じである。母親は自分が悪かったと赤い頭巾をかぶせ、きれいなよだれ掛けを奉納し、また嗣も建てた。間もなく息子の潮来通いはなくなり、勘太も嫁をもらってまじめに暮らした。その後誰いうとなくこのお地蔵様を「北向き地蔵」とよぶようF」Pムっ,?Bb・4 Jチ'この北向き地蔵様は、現在長勝寺に移されている(西山たか子「北向地蔵」『潮来の民俗』創刊号)。地名は元来、人びとがその必要からつけたもので、その地名の由来意味は明らかであった。しかし年を経るにしたがいその意味は不明となるものが多く、さまざまな伝説によってこれを説明するようになる。潮来には『常陸国風土記』の中で、建借馬命の故事による「板久」(潮来)、「古高」「江崎」が、また倭武天皇による「大生」「大賀」が地名説話として記されている。」れまでにあげた938伝説の中にも「小里」「旗替」など地名の由来と関係するものがあった。北向き地蔵〔長勝寺内〕重複を避けて次にその事例をあげよう。堂作坂(水原)愛染院の後の坂。愛染院を建立する際材木等を運ぶための坂をつくったのでこの名がある(浜野元市調査)。こ小や屋(水原)源義家が前九年の役で父の頼時に従軍した。}の出兵の前年は凶作で、米麦の収集に困難のため、ひろく地方に協力を求めた。その収荷に際し貯蔵の小屋を建て協力したことが忠勤奇特とされ、その名がついた〈「潮来町小字地名考」『ふるさと潮来』第六輯)。たての立野(築地)立野という姓の一族がいた。ろくぷみね六部峯(築地)昔、修業中の六部が住み、おおだいらやま大平山(延方)ここで捜した。島崎氏の家巨大平将監が居住したことによって名付けられた。台の窪(延万)大中坊の足跡という。将監(延方)昔、大平将監が古高にいたので、その人の名をとってよば鯉己れ付3て坂iぃ〆戸、芝肥ス付以坂~潮24来語字地名考'-西蔵酒庖前の坂で、浅間下から海端まで。V}の辺には鯉が多くいたので}の名がつけられた(話者塚本新一郎採話松薮3崎下主松潮来昔、水戸光聞が長勝寺にきたとき、のどが渇いたので水を所望した。当時稲荷山下は薮になっており、そこに水のきれいな井戸があった。それから「薮下」と名がついたその水を汲んで差し上げ、(話者久保木効方採話松崎緑)。