ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
俗さらに周囲は北浦と震ヶ浦がめぐり、いわゆる行方台地の南東端部にある。東に対する鹿島台地とは指呼の間といえよう。民こうした地理・地形の自然環境を有する潮来町の民俗は、当然県北地この地域がVI方とは異なる様相を示すことになる。また近世においては、水戸藩領と麻生藩領となるため、とくに水戸藩の社寺改革によって民間信仰に変化を生じている。中世には鹿島神宮領があったばかりではなく、きわめて近い距離に常陸一の宮である鹿島神宮がある。このような歴史的な環境も潮来町の民俗とかかわりをもっている。まず鹿島神宮および鹿島信仰と関係する民俗事象をみることにしよう。民間信仰として年中行事の中で行われるオカケないしオカケ祭りは、神社の仮宮を杷り、集落の人びとが集合して祈願・飲食をする。丹治主ら三月、主に二月を中心とする行事である。この場合、鹿島神宮の仮宮を奉斎するのが「鹿島オカケ」と称している。概して潮来町の東部である大生原地区でみられる。すでに第四章第二節で述ぺたように、大生神社十一月十五日の例祭には、鹿島神宮から物思が乗輿して来宮するという重要な行事が続けられていた。また同日の亙女舞神事の亙女送迎には、鹿島祭頭祭の歌が唄われている。延方地区徳島には、弥勅踊りが伝承されている。宮田登『ミロク信仰の研究』によれば弥勅は仏教で当来仏といわれ、釈迦滅後五六億七00O万年後に弥勅浄土より、現世に下生して衆生救済を果す仏菩薩である。弥勅信仰は奈良時代初期にいち早く伝来し貴族社会に受容された。中世には民間にも普及している。日本では農耕儀礼の中で豊年をもたらす穀霊が弥勅だと信じられ、米の菩薩としての信仰もあるという。茨城県から東海地方の沿岸部に残る鹿島踊りの中には、弥勅が遠い海の彼方から訪れることを歌う文句があり、これも豊作や富をもたらす存在として考942えられている。鹿島信仰は、戦国時代の「弥勅」私年号と深い関係があり、弥勅信仰伝播の拠点であったと推察されている。赤松宗日一の『利根川図志』にも「弥勅歌」が載り、北条時都の『鹿嶋士山』には「弥勅踊り」が図入りで紹介されている。茨城県中・北部の美野里町竹原、水戸市大野町、ひたちなか市東本町には底ぬけ屋台の中で、奇怪な顔をした人形の頭を棒の先につけて踊らせるという「弥勅踊り」が祭礼にともなう。「大野のみろく」の歌詞は次のとおりである(常澄村教育委員会『大串さら・大野みろく』)。世の中はまんごう末代みろくの世にとっんづいたてんじくでは十三姫が米をまくただはまくまい日本繁昌と米をまく鹿島浦には宝の御船がつんづいたともえには伊勢と春日中には鹿島の大社繁自国繁昌鹿島神社の鹿島信仰は、弥勅信仰と重なって、広範な地方に浸透していたのである。次に潮来町の伝説には、源義家や源頼朝伝説があり、また勅使塚の伝説でもみられたようにいずれも鹿島神宮参拝の内容をもっている。潮来の地が交通の要衝としての位置を示すとともに、鹿島神宮の存在が伝説成立の一要素を有していることは明らかである。以上のように、潮来町の民俗の中には、鹿島神宮の存在とその信仰が強くあることを物語っているということができよう。