ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

俗亥の子の地っき岡その他カイレンの名称盆舟、民以上のうち、岡その他の盆舟は、南部的とみてもよい行事であるが、VI北茨城市大津などにもみられ、水辺の環境とも対応する。カイレンは県北一帯に多い鍬入れの呼称で、県南に多いイチクワと重複して使われている。また潮来地方的としたのは、潮来町を含めた鹿行地帯南部に主にみられる行事である。}の点では、逆に実施されない行事、あってもあまり重視されない、分布上稀薄な行事もある。たとえば、初午のシモツカリ、二月八日の目龍立て、襟掛餅、ゴタチの祝い、筑波のお座替、ケの一日、青屋箸、盆綱などで、潮来地方的な特色をみせている。盆綱も那珂川以北には確認されていない行事で、鹿島郡では鉾田町、行方郡では北浦村、玉造町、稲敷郡桜川村までにはみられるが、潮来地方には降、、。サ山Lかなり概略的であり、それぞれの民俗事象は実際に複雑な様相を呈するのであるが、一応こうした分類によって、潮来町ないし潮来地方民俗の位置、および特色が指摘できると思う。また分類を、社会・経済・信仰・言語生活におけるさまざまな民俗事象について応用し、その結果を総合的に捉えれば、より確率の高い結論が得られることになろう。とりあえず、年中行事を中心とした分類にとどめて、さらに概観すると、潮来町の民俗は、県全体を通じて同じように行われているもの、県南的なもの、潮来地方に行われているものとなる。県南的なものには、地理・地形的に霞ヶ浦、北浦、利根水系に共通し、また千葉県にもわたって分布する。潮来地方的なものは次の項でも述べるように千葉県北東部にも分布する。つまり、民俗事象分布の状態を茨城県、千葉県の範囲で捉えると、よりひろい範囲で共通する分布、そしてその内側の分布、さらに内側の小範囲の分布という、三つの分布圏の中に潮来町の民俗が950位置することになるのである。なぜこのような要素をもっ民俗が成立するのか、その解答はさらに民俗事象の一つ一つについて系統をたどらなければならない。ただ茨城県民俗の分布状態は、とくに北部においては福島県から東北地方と共通のもの、西部では栃木県と共通のもの、南部では千葉県と共通のものがあって、北、西、南からの文化伝播によるものが認められる。潮来町の民俗も同様の系統を有していることは明らかである。}の占川では-F』屯よ国/、JJJJ'L.t.先の分類で潮来地方的とした民俗事象の中には、このような系統とみることに跨踏せざるを得ないものがある。亥の子の地っき行事である。十月十日あるいは九日夜、亥の子の行事として、子供亥の子地っき行事の分布らが石を縄でしばり、数人が縄をもって地面をつく事例は、第一章年中行事の第四節秋から冬への中でやや詳しく記した。潮来町では、潮来、津知、延方地区に顕著で、大生原地区では採集されておらず、かわって庭打尾(藁槌)打ちがある。地面をつく、叩く、打つといった行為は、月見の夜(とくに十五夜)と十月十日に多い。方法としては、藁鉄砲打ちか石つきである。茨城県では、月見の夜の藁鉄砲打ちが県北の一部から中央部を経て西部にあり、亥の子の藁鉄砲打ちが県西部を主としている。昭和三十九年にひたちなか市阿字ヶ浦町原での調査によると、旧八月十五日の晩にツツキン棒(手杵)に綱をつけ「モグラモチャドコダ」と先頭の人がいうと、後の人が「モグラモチャココダ」といって、ツツキン棒の柄を握って畑を叩いfこ}れは大人の行事であったという(話者宮本米吉明治六年生)。かつてはひろく行われたもので、藁鉄砲打、石つきの行事はほとんど子供の行事となっているが、古くは大人が行っていた農耕儀礼だったの