ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
俗千両でボッタリショ万両でポッタリショ民もひとつおまけにポッタリショVI戦後間もなく廃れた行事である。以上の確認された事例によれば、亥の子の石っきは行方郡北浦村、潮来町、牛堀町と鹿島郡神栖町、波崎町のいわゆる鹿行南部に分布する行事ということになる。類似する亥の子の地っきは、千葉県銚子市名洗町の例が知られている。「亥の子祭り餅をついてサン俵の中にガラガラするカキガラを入れ二入組んで、二人でかついで回り一人は物をもらって歩いた。『亥の子だ、亥の子だ、}れはどうこの亥の子だ、旦那様の亥の子だ、餅一つ祝ってよ、みかん一つ祝ってよ』とみかんや餅をもらってあるいてたぺた」という(千葉県民俗総合調査団ヨ房総の民俗|昭和三一八年度千葉県民俗総合調査報告』)。茨城県の近くは北の福島県いわき市平の一事例がある。「三、四十年ほど前(大正十二1昭和八年頃)まであったというが、十月最初の亥の日に『ゐのこ』と称して、天神社(平市仲間町)に町内の男の子達が集り、一尺四方くらいのまるい石を綱でしばって、恰もどうづきのごときものをつくり、この町の家々を持ち廻って庭でつき、祝儀として二三銭ずつ貰う風があった。終ればその金で菓子を買い、天神様に供え、後で分配して解散する。}れは男子の生まれるようにとの予祝だったのである」(岩崎敏夫『日本の年中行事|磐城篇』)。こうした亥の子の地っき、とくに石っき行事は、中部、関東、東北地あるいは稀にあるかである。ところが近方ではほとんど行われないか、畿以西の西日本では、きわめてさかんな行事となっている。宮本常一「亥の子行事」(『民俗学研究』第二輯)にすぐれた研究があり、その後文化この成果952庁編『日本民俗地図年中行事I』にその分布図が載っている。と諸書および調査資料をもとに作成したのが第羽lm図である。西日本の事例とは、歌詞の内容を異にするが、石つきの方法と歌をともなうことでは、潮来地方の事例と同様といえる。分布図をみてもわかるように潮来地方と銚子に分布する亥の子の石っき行事は、日本の民俗の中に占める位置は特異である。この理由については、なお確かな証明が困難となっている。ただし次のような推察ができるかと思う。かつて全国的に亥の子の地つきがあり、その中に石つきがあったと仮定しでも、分布図の示す状態からして潮来地方その他わずかの地にのみ残存したとは考え難い。もし古習俗の残存とすれば、中部地方にも若干の残存があってもよいことになる。分布図のもう一つの特徴としてあげられるのは、西日本における分布が比較的海岸部にあることで、東日本では日本海側の新潟・山形県、太平洋側の千葉・茨城・福島の一部に限られている。したがって、亥の子における石っきに限っていえば、西日本の習俗が海を渡って伝播したということになろう。潮来地方の石っき行事は、利根川から入って定着した一つの文化現象であると考えざるを得ない。