ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
第二節茨城国と那賀国すでにみたように、大化改新以前の行方の地は、茨城茨城国の範囲固と那賀国の一部に属していた。茨城国は酒沼川中流域および恋瀬川、園部川の流域一帯と震ヶ浦沿岸の地域にあたる。常陸国のなかでも特別に水辺環境に恵まれた地域であった。『常陸国風土記』には、孝徳天皇の白維四年(六五一二)に茨城国造の壬生連麿と那両国造の壬生直夫子らの申請により、茨城の地八里と那珂の地七里を割いて行方郡を置いたとある。さらに物部河内、物部会津らの申請により、筑波・茨城両郡から七OO戸を分けて信太郡を置いたとみえる。茨城国はのちの茨城郡の地ばかりではなく、行方・信太両郡の一部を含む広い領域を有していたのである。茨城国から行方郡へ分割された地域は、現在の行方郡の霞ヶ浦東岸の地域であり、信太郡へ分割されたのは、現在の稲敷郡の霞ヶ浦南岸の地域と恩われる。また『常陸国風土あふるくは記』茨城郡の条には、「調はゆる茨城は、今那珂の郡の西に在り。古者郡家を置く所、即ち茨城の郡の内なりき」とある。}れは茨城郡の郡名大和朝廷の支配の起こりとなった「茨城」は、もと茨城郡内の地で郡家もそこに置かれていた。ところが、そこが那賀郡に編入されたので、郡家は他所に移ったことを示している。『和名抄』には、那賀郡に「茨城郷」がみえるので、この郷が茨城郡から編成替えになったのである。『常陸国風土記』第2章には、「茨城の里」として那賀郡に入っている。おそらく、大宝律令の施行にともなって行政改革があったものと思われる。那賀郡茨城郷は、現在の西茨城郡友部町にあたる。そうすると、茨城国の範囲は、現在の石岡市を中心として北は友部町、岩間町、東は茨城町、小川町から行方郡の震ヶ浦東岸一帯、南は稲敷郡の霞ヶ浦南岸一帯、西は八郷町を含む広大なものであった。茨城国を支配した茨城国造は、『古事記』巻上ゃあまつひこねのみこと『日本書紀』神代上には、天津日子根命の後とみえっくしとねる。『国造本紀』にも天津彦根命の孫、筑紫万禰をおきはがたら国造に定めたとある。『常陸国風土記』では茨城国造の初祖を、息長帯しひめほんだ比売天皇(神功皇后)の朝廷に仕え、品太天皇(応神天皇)がお生まれになたけころのみことおみゆえのった時まで至った多祁許呂命とし、その子の筑波使主を茨城郡の湯坐むらじ連の初祖とする。茨城国造の性格『大日本地名辞書』は、多郡許呂命は筑紫万禰の父で、筑波使主と筑紫万禰を同一人とし、「筑波」の「波」は「紫」の間違いとする。『新編常陸国誌』巻九も、筑波使主を『国造本紀』では「筑紫-一作レペ何レカ是ナルヲ知ラズ」としている。『常陸国風土記』には、白雑四年(六五一ニ)に茨城国造小乙下壬生連麿を記しているので、茨城国造は支配領域とものみやっこその伴造(部の管掌者)を兼ねて壬生連の氏に壬生部が設定されると、姓を称するようになったことが知られる。石岡市の舟塚山古墳は、全長一八六メートルを有する前方後円墳で、五世紀築造と考えられ茨城国造筑紫万禰の墳墓といわれている。高浜の海を望む地にあるこの古墳の被葬者は、震ヶ浦の水運の支配と密接な関係をもっていたと思われる。茨城国造の一族は、水辺儀礼と結びつく性格を有していたようである。『常陸国風土記』には、茨城国造の初祖である多祁許呂命は息長帯比売天皇の朝に仕えて、品太天皇の誕生したときまで至った、とあり、茨城国造の初祖が応神天皇誕生と結びつけられ85