ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
原始・古代行一一E{jl,y,llilt1t(il山崎r、B第1 -23図石岡市舟塚山古墳実視IJ図cr茨城県史料古墳時代」より)Aの初祖としているのが注目される。さらに多一捕許呂命の子、筑波使主は茨城郡の湯坐連らているのである。湯坐は本居宣長の『古事記伝』に、「児に湯を浴する婦」とある。あるいは皇子誕生のときに産湯をつかう人とか、宮中の湯を掌ったという『常陸風土記とその社会』)。湯坐は皇子の出誕儀礼に関きおひめい江ぎ係がある。『古事記』には、垂仁天皇の后沙本毘売が、燃える稲城のな86説もある(志田詳一かで皇子を生み、死のうとしたので、天皇が「どのようにして育てるのおおゆえわかか」と問うと、「乳母を定め、大湯坐・若湯坐をきめて育てなさい」とたんぱひこたたすみちうしのおうえひめおとひめそこで天皇は丹波比古多多須美知字斯王の女、兄姫・弟姫の二答えた。とみえる。丹波比古多多須美知字斯王は、『日本書紀』垂みちぬしひこゆむすみのみこ仁天皇五年十月条に丹波道主とみえ、「一に云はく、彦湯産隅王の子な人を使った、りといふ」とある。ゆごり彦湯産隅王は『古事記』開化天皇の段には、由碁理の女の子であると伝えている。由碁理はユゴリ(湯垢離)で、彦湯産隅王のユムスミは「湯産」であり、湯坐すなわち出誕儀礼に由来する名である。その娘が湯坐となヲているのは、水に関する亙女的性格があったことを物語る。おそらく、多祁許巴命にも彦湯産隅王のような性格があったのではないだろ-っか。『常陸国風土記』に茨城国造の初祖とみえる多祁許邑命は、しがたかあ年ほみよ紀』では志賀高穴穂朝(成務天皇)の御世に石城国造に定めた、かるしまとよあかりみよまた軽嶋豊明(応神天皇)の御代に、建許巴命の子、『国造本屋主万禰をと道2ぁ奥?る菊多国造に定めた、とみえるのである。皇子誕生の湯坐と関係のある茨城なぜ石城や菊多の国造と重なるのであろうか。きくたのおみふ〈たり『類栗田史』巻九九の天長九年(八三二)四月条に、「湯坐菊多臣福足」国造の初祖が、の名がみえ、『三代実録』貞観十二年(八七O )六月二日条には、「陸奥国はせっかべのつぐまろはまなり菊多郡の人、丈部継麻目、丈部浜成ら男女二十一人に湯坐菊多臣の姓を賜ふ」とあるので、菊多郡の地が湯坐と関係があったことが知られるのである。陸奥国菊多郡の地は、石城国に属したこともあるので、建(多祁)許呂命を石城国造に定めた、という『国造本紀』の記事の背景に