ブックタイトルうしぼりの文化財 民俗資料編

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概要

うしぼりの文化財 民俗資料編

かな物、又どない宝物なるが故に無闇に聞くべきものではないど命じ厳封されて帰還された。以前誰人も見たことはないど伝えられている。たまたま明治に入り無智な輩がこれを聞いて見たとか言う。足てはならない物を見たどいう恐怖の念から半狂苦しになる?、発狂して毒を食って死んだ者さえあった。以後『聖教様』はあらたかにして粗末にはならぬと深〈信仰されるようになった。正月二十八日は村祈棒又は春祈格ど称、し、『紅葉聖教』の入った箱をカ、つぎ、大般若経を奉読し堀之内部落をはじめ茂木部落を戸別lこ辿,)歩いた。但し不浮の家をきらい、庭に入るとピカピカどぷ光を放ち皆を驚かしたという。(伝承者故平山勘太郎氏)金力比羅神社時代は移りだんだんに古いしきたりはすたれ、今はただお札を世話人が配るだけに変った。そのおキしも今は角大師どいう悪魔除けのお札即ち元三大師(慈恵大師)のお姿である。この行事を(二本松寺の大般若)ど言っている。徳川時代も中期以後か、送り神といって下総三島から永山へ厄病除けの木太刀が祖ぎとまれた。永山ではワンサワンサ担ぎ廻って富田へ順送りにしようとしたら、富田は法華宗の為拒絶され、是非なく廃家になっていた屋敷の片隅に安置した。逐次参詣人が増方ロし、殊に舟乗りの海上安全、j魚師に豊j魚、の霊験L、ちじるしいとあって鹿島灘沿岸、銚子方面、稲敷をはじめ霞ヶ浦沿岸からの参詣人が珪を接するようになった。社殿も管栄とともに変遷して現在のものは三回自らしL、。-85-