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概要

潮来の石仏石塔

多くの道祖神の信仰は、男女和合、子孫繁昌、家内富貴、五穀豊穣が主たるもので、旅の守護神となったのは、中国のろ〈ろ〈道教の道禄神(道陸神)とむすび、その「道」に関係づけて道の神となったのであろう。道祖神は「祖」の方に重点があり、「同祖神」として同族がその祖先神を杷ったものではないか、と考えられる。わんじようきかず曾飛鳥道祖神石像が、椀状の盃を両手で支えていたらしく思われるのは、酒を酌みかわすことが男女和合のシンボルだったためではないかと思われ、このことは婚礼の盃事という習俗にも共通しており、これを知った渡来工人が和合神像としてこの石像を造ったのであろう。近世の双体道祖神も相手の肩に手をかけて、盃をもっ像容が多いのは、この流れをうけついでいてのことなのではないか。木製でも石製でも男根型の棒は祖先の象徴としてまつられ、これが道の辻や村の入口に立てられて結界石となったのであるが、結界石として、この祖霊が子孫の安全を護るために、ふなとのかみさいのかみ悪霊を防ぐ神となったとき、それは岐神または塞神となる。長野県には道祖神碑とともに陽石、陰石が昭和田十三年ごろには多数のこっていた。鹿児島周辺から国分市、加治木町あたりの田圃には、男根形の「田の神どん」が立てられている。農民にとっては田の耕作を守護する田の神なのである。(1カ,鳥獣士主主ロ牛馬供養塔・馬頭観音・馬極神・牛頭観音・豚頭観音・蚕神塔などがある。(18)の他そ弘法大師供養塔「南無遍照金剛」と刻んだ塔。弘法大師が入唐して、濯頂をうけるとき、胎蔵濯頂・金剛界濯頂・伝法瀧頂の三濯頂における投華得仏に、つねに大日如来を感得したので、師の恵果は讃嘆の声を放ったという。空海は帰朝後、遍照金剛を称したのは確かにこのとき恵果から与えられた濯頂名である(註・日本仏教基礎講座・真言宗・雄山閣)後生車石柱に車をはめこみ、念仏をとなえながら車を廻しりんねぐるまで、死者の供養をする。輪廻車ともいう。と〈ほん徳本上人念仏(供養)塔江戸後期の専修念仏行者で、江戸を根拠として信者をあつめたが、利根川流域も行脚し、特に我孫子から下流、銚子までの聞に、独特の書体の名号石が多く残っている。道標道路標識であはあるが、標識だけの石は数が少なく、その多くは無事に巡拝を終えた感謝の識るしにと、同行の者さぜん達が立てるか、作善のために一結衆の人達が立てている。石灯篭仏教関係のものと神道関係のものとがある。両者ともに常夜灯といっているが、神道関係ではとくに御神灯と彫噌4d