ブックタイトル牛堀の文化 第4号 特集「私の昭和史」
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牛堀の文化 第4号 特集「私の昭和史」
く後妻を迎えたのだと思います。従って人生の大半は継母(以実母は昭和一一年一月に死亡し、当時弟は乳児で父は止むな孝者だったと思います。父は、帽子の製造(ハンチングH鳥打帽子)では、東京でも下母)にお世話になった次第です。私は小学校入学時、食べものの好き嫌いが甚だしく、それが原因か湿性の助膜炎を患い、小学校一年の学期末から二年の一学期にかけて欠席してしまいました。母は何かと栄養のあるものをと考え、どじょうを食べさせるべく(当地出身の母はどじょうには栄養があると思い)、細かく刻んでオムレツの中に入れ、黙って私に食べさせました。そのほか色々な母の苦労の結果、何でも食べられるようになり、今日の自分があるものと感謝しております。担任の先生から二年生の一学期を全休したので、二学期も登校しない場合は落第になるとの話で、父は「この体の大きいのが落第したらみっともない」と朝の登校時におんぶし、時間乃至二時間授業を受けさせ再びおんぶで下校した次第です。この時期は算数が九九の時で、教壇の所で成績優秀な級友に聞き取りをされ、大変迷惑をかけたことは未だに記憶から離れません。早退でも出席すれば良かったようで、父の苦労は、並大抵ではなかったと思います。当時は、現在のように医療保険制度が無く、子どもだった私にはその苦労はわかりませんでしたが、今考えれば大変な親不屈指の腕で屋号を「金馬堂帽子店」といい、その筋では名前が通っていました。昭和二O年三月一O日の東京大空襲で家屋が焼失し家は背負えるだけの荷物を背負って東京をあとにしました。当時電車は不通となり、浅草から市川迄歩きました。途中本所、深川、両国近辺は死人の山で目を覆う状況でした。昭和一八年旧制中学に入学した頃、既に学校は戦時体制一色で、週二時間(後に三時間)の軍事教練があり、何かあると鉄-6-拳の嵐を受けました。二O年三月は中学二年の学期末で、当時は死を恐れるなと再三に亙り教育され、洗脳されました。とのような殺伐とした状況の中で、軍隊が路上の真っ黒に焼けたただれた死体の山を荒鐘に丸めてトラックに積み上げ、文隅田川をはじめ河川で溺死した死体の収容に当たっているのを見ても恐怖心はあまり起こりませんでした。現在では到底考えられません。(亡くなられた方のご冥福を心からお祈り申し上げます) 私達一家は逃げ場所の選定が幸いして命拾いをし、親類を頼って当地へ参りました。私は麻生中学校に転校し、同級生は土浦第一海軍航空廠に動員学徒として既に寮生活に入っており