ブックタイトル牛堀の文化 第4号 特集「私の昭和史」

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概要

牛堀の文化 第4号 特集「私の昭和史」

夜越川の両岸には柳の木が多く植えられていた。当時の堤防はお組末なもので、それによく洪水が出て、その度ごとに土堤が削られるので、護岸のために水に強い柳を植えたのである。この木の下はよく魚がつれた。魚は小形だが、ミミズや飯粒などで鮒やタナゴが、柳の木の虫や葡萄虫を餌にすると、ウグイ、ヤマベ、マルタなど何でも釣れた。また夏には酸欠か何かで水面に顔を出して、四歳ツ子の大パクパクしている大鮒や、ボラを、投網で獲ったりした。今では到底考えられない光景であった。普段はのんびりした夜越川も、大雨が振るとよく氾濫をおこし、沿岸の人びとを悩ませた。ある年の秋の洪水で対岸の芝宿では、二軒の家が被害に遭い、私の祖父の漁船もこの時の水で流失してしまった。夜越川のたびたび起こる洪水は、川巾に対して上流の流域面積が多かったためと思われ、これが後になって河川改修の要因の一つとなったのである。夜越川には、水車橋という木の橋が架けられであった。昔近くに水車小屋があったことからこの名が付けられた。橋は杭を打ち、板を渡した簡単なものだが、船を通すために高くつくられ、夏になると、子供達の水遊びの飛びこみ台として利用され、日中は子供達の喚声で賑わった。この橋は八代側から牛堀へ入る人達にとって近道であるため、意外と利用する人が多かったが、自転車は通れなつかった。V」の橋も先の洪水で流されてしまった。この頃の夜越川は、香澄村と八代村の村境の川であった。川を挟んで子供同士でよく喧嘩をした。激しい時は石の投げ合いになったりするが大概は口喧嘩で終わる。「どこどこ(村の名)の学校は豚学校!豚が三匹逃げ出した!」などと他合いもない曜子文句だが、八代の子供ら相手の時はそれに加えて、「八代lロシヤ・クロパタキン!」などと言って嚇し立てたものだ。当時の牛堀と芝宿の商人にとっては、対岸の十六島は大事な消費地帯であった。薪・炭などの燃料をはじめとして、生活必需品の大かたは牛堀で購入していた。夜越川の河口にある渡船場と対岸の三島(現在佐原市)の渡船場は両方の地を結ぶ重要な役目を果たしており、渡船場に連なる道路は商店街として栄えていた。旧東栄橋付近から渡船場までの約一00メートル、夜越川両岸にあった当時の商店街を、想い出すままにあげてみると次のようになる。(順不同)O醤油醸造兼酒店O大工業O桶店O精米業O薬局O菓子店O洋服仕立業O豆腐店O精肉店O自転車店