ブックタイトル牛堀の文化 第4号 特集「私の昭和史」

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概要

牛堀の文化 第4号 特集「私の昭和史」

の状態で西蓮寺バス停に降りた。参道は人波で一杯になる程の賑わい、だった。丁度農繁期も終わり、農家の人の懐もふくらみ財布の組も緩んで、子供達もこの時ばかりは小遣いをはずんでもらったのだろう。商人にとっても一年で、一番の稼ぎどきだったと思う。まち私の家も西蓮寺市の恩恵にあずかる職業で、隣り地区の井上という所で旅館業を営んでいた。井上の川岸には渡船場があって向う場(土浦や出島)から舟で泊りがけで仏立てに来るお客様が多く、旅館も数軒あったようだ。私の家は「和泉屋」といい、平屋の本館のほかに三階建ての別館と離れ座敷があり、大勢の女中さんの働く割烹旅館だった。私がもの心つく頃には、交通の便が発達してパスが通るようになり、泊り客がだんだん減って割烹旅館をやめ、その後、私の娘時代までは富山から来る置き薬屋さんの常宿をしていた。掌45ψつ一五年位前、娘を連れて久しぶりに西蓮寺市に行ってみた。そして驚いた。門前はおろか、山門に上る石段にも露店は無く仁王門から境内にかけてばらばらと出ている程度で、私の子供時代の賑やかだった市の面影も無かった。お寺の世話人さん達も手持無沙汰の様子で雑談にふけっていた。昔は仏立てに来た人の昼食の接待で、本堂の方は息継ぐひまも無い忙しさだった。七日七夜の常行三昧会も、昔は四1五人の僧侶が続経していたように思うが、最近はサラリーマンのお坊さんも多く、昼は二人位でまわっているらしい。淋しい気がする。今は、各壇家も地元のお寺様で新仏の秋季彼岸供養を行うようになり、西蓮寺さんに出向いて仏立てをする人も少なくなったようである。まち昔の市のようなざわめきも聞こえない静かな境内を、同行のまち長女と教策しながら、賑やかだった頃の市の話や、国の重要文化財になっている建物の事、先祖のことなどを話した。常行堂に行き参拝していると、父の総代の頃から世話人だった知人に会った。「和泉屋の娘さんだよね。よく来たね。ゆっくりお参りFhU4Eiして行って下さいよ。」と言いながらお茶の接待にあずかり、ハメの時代の西蓮寺の懐かしい話をしていただいた。その父母も既にこの世を去り、西蓮寺様から最高の戒名を頂き、さぞあの世で穏やかな日々を過ごしている事だろう。遠いま色日の思い出に浸りながら西蓮寺市をあとに、秋の夕日の中の充実した爽やかな気分になって帰路に着いた。