ブックタイトル牛堀の文化 第4号 特集「私の昭和史」
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牛堀の文化 第4号 特集「私の昭和史」
私は昭和一六年内蒙古へ渡った。父が一四年に蒙古聯合自治政府に務めたからである。父母と子供の七人家族で、はじめはこうわ厚和市に住んだ。ここは官舎もなく中国人の家を借りた。土造り、土葺き屋根の家だった。厚和市は緑の都と呼ばれた美しい町で、域外は柳の街路樹が続き、阿片を採る広いけし畠があった。町を流れる川のほとりで中国人達は棒でたたいて洗濯をしていた。それから父の転勤で帳家口に移った。ここには蒙古聯合自治政府官舎があった。帳家口は蒙古の首都で、領事館・大使館の建物や、銀行、三井物産・東洋綿花等の会社もあった。私は政府の交通総局へタイピストとして務めた。タイピストは七人で新潟の人、大分の人、広島の人のみな二O才前後の若い女性で、女子寮に入っていた。冬は零下二O度にも下がり、川は凍って氷の上を通って出勤した事もある。交通総局は一年位で辞め、三井物産へ移った。大学出の若い男性社員は次々と出征し、女性達が男性に代わってタイプ、電話交換、事務と何でもやらせられた。戦争はいよいよ蛾烈になり、父は帳家口に警護の百集を受け、頭を丸坊主にして軍隊に入った。昭和二O年八月七日のソ聯の参戦を知り、大陸の奥深い蒙古の私達はすぐに引揚げの準備にかかり、引揚げの通知が来るのを待った。そして終戦になった。引揚げのために帳家口を出発したのは八月二O目だったと思う。母と蒙古で生まれた妹を入れ六人の子供での出発だった。未の妹はまだ生後八ヶ月、母はとの妹を背負い、おむつや下着類を持ち、私達はそれぞれ着替えと食料(非常食として配給になっていた乾パンや缶詰)などをリュックに詰めて背負った。小学生の弟、妹達にも背負わせた。帳家口の駅を出発したのはお昼近くの暑い最中、長い長い連結列車の無蓋車に私達一家はやっとの思いで乗る事が出来た。列車が止まる度に飛び降りて内ノ&円ノ&水筒に水を汲み、おむつの洗濯をし、中学生と女学生になっていた弟、妹達も力を合わせてくれた。兵隊さん達が乾パンを列てんしん一週間位かかってやっと天津に着車の中に投げ入れてくれた。いた。そして大和という小学校に収容された。ここでようやく復員した父とめぐり合い、お互いの無事を喜びあった。私も三井物産の退職金を天津支店で頂き、みんなの靴とそして栗まんじゅうを買った。天津の街は暴動も無く落ち着いて、日本租界ではまだ暖簾の下がっている店もあった。蒋介石の大きな肖像画を揚げて歩いている中国人達も居た。そのうち大和小学校もアメリカ軍に接収され、須磨小学校に