ブックタイトル牛堀の文化 第4号 特集「私の昭和史」
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牛堀の文化 第4号 特集「私の昭和史」
移された。ここはすぐ近くに陸軍病院があり、ここのお風自に入れて貰った。勿論交代ではあるが、一週間に一度位は入った様な気がする。引揚船がいつ出るのか不安な毎日ではあったが、楽しみもあった。芸達者な人達が居て、唄や踊り、寸劇なども見せてもらいお互い慰めあって過ごした。それと私達のような若者、学生達は軍の農場へ手侍いに行きそこで昼飯を食べた。畠にはとうもろこしが作られ、なつめの木には緑の実がたわわに実っていた。ころとう天津の塘泊タ!ク港から引揚船に乗ったのは二O年一O月末、出発時の夏服が冬服に替わっていた。船は満員、夜は船底ですし詰めの状態の中、日本へ帰った夢を見て眠った。博多に着くまで一週間はかかったろうか。毎日毎日海原を眺め、時に亡くなった人を水葬するドラの音を聞いた。あの時何人位の方が故郷を目前にして亡くなったのだろうか。今考えると夢のようでよく生き延びたものだと思う。日本に着いたのが二O年の一一月寒い冬の季節で、一才の妹は母がお乳も出ないので栄養失調で虫の息、母は「この子の事は諦めよう。日本へ帰れただけでいい。」と言って泣いた。でも生命力とはすばらしい。重湯やス!プを飲ませる様になると生後一0ヶ月の生命はみるみる回復、元気になっていった。その妹も今では二人の子供、そして孫にも恵まれ、幸せな家庭を築いている。私はこれからが悪戦苦闘の人生だった。農業をやった事もない私が農家の長男に嫁いだ。一O人家族の嫁の立場、農業の厳しさ、重労働、はじめは実家に帰る事ばかりを考えていたが、そのうち子供が生まれた。その時から私はこの土地の土になると決心した。iJ ; それからはなりふり構わず、無我夢中で働いた。水稲は勿論、畑作は麦・小麦・煙草・そば・唐辛子・らっ京等、値の良く売れるものは何でも作った。そして四人の子を育て、A7は四人ともそれぞれに家庭を持ち、孫一一人にも恵まれた。私-23ーは留守番と家で食べる野菜作り、あとは好きな手芸をしたり、下手な俳句をひねったり、今はいつ、あの世からお迎えが来ても思い残す事は何も無い。至福の日々を過ごしている。ショウエン小屋の炭焼き窯内野健造昭和六三年( 一九八八)牛堀町では、今林工業団地造成のた