ブックタイトル牛堀の文化 第4号 特集「私の昭和史」

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概要

牛堀の文化 第4号 特集「私の昭和史」

めの発掘調査が行われ、私も参加したが、調査も終わりに近づいた頃、区域の北端に近い所から、大きな炭焼き窯の跡らしいものが発見された。そこは小さな谷状の凹地になっていて、狭い道を下りながらしばらく行くと、自の前が急に開けて大膳池のほとりに出た。窯跡は谷の入口と池との中間にあった。その時は、『炭焼き窯跡』として調査をすませたが疑問が残つた。作業員の中には炭焼き経験者も居り、「窯が大き過ぎる」とのこと、また経五メートルの円形の窯は、上部も、床面も、周囲も高温で焼けており、不思議なことに床面には一片の炭さえ発見されなかった。もともと今林五O町歩は、旧藩時代には水戸藩の所有であり、清水村庄屋の大崎氏、牛堀村庄屋の須田氏、潮来村庄屋の石田氏らが交代で『大山守』となって管理しておった所であるが、明治の大政奉還によって政府に返上し、政府はこれを地元民に払い下げたのである。それには山林の立木を伐採して更地としなければならないが、それらの仕事は地元民にまかされた。こうして山仕事は数年間続き、農外所得の現金を得ることの出来た人びとの喜びは、さぞやと思われるが、それらを物語る絵馬が島崎村(大字島須) の鎮守、御札神社に掲げられてあった絵馬は昭和四O年( 一九六五)頃まではその内容も判る状態守-っこ、1、子てfヵ一三O年余の風雨に晒された今では、面影もなく消滅してしまい、記憶と辿りながら想い出す外がないが、絵馬は横一、八メートル位、縦約一メlト位の大きさで、絵の上部分の一位のところには、御札神社の石段と鳥居が描かれ、境内の山には満開の桜が描かれていた。下三分のこには芝宿の居酒屋の風景が描かれ、家の中ではチョン髭姿の男達が三、四人酒盛りの最中、外には、彼等が薪運びに使ったであろう馬が三匹繋がれていた。44q〆UM当時の常陸利根川左岸には、牛堀河岸があり、支流の夜越川には芝宿河岸があって、農産物その他の集積地であり、東京・佐原・銚子方面の物資の交流地点として栄えていた。古い記録によると、「寛永二一年( 一六三五)江戸の水戸徳川藩邸へ出す薪炭のつくろい人足、御殿作事などに、牛堀より百八四人駆り出され、牛堀の舟津までの薪を運び出すため、二千八四人が駆り出され、二千二OO頭の馬が近在から徴用された」とある。恐らくこの時も水戸藩領の今林山林が伐り出されたのではあるまいか。幕末の水戸藩は多事多難の時代であった。安政二年( 一八五