ブックタイトル牛堀の文化 第4号 特集「私の昭和史」
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牛堀の文化 第4号 特集「私の昭和史」
五)四月米国軍艦ヴィンセンスが常陸の海岸に現れ、安政七年(一八六O)には英国の補鯨船の船員が大津港に上陸したりしたことから、藩主の斉昭は壌夷の思想を高め、海防のため陣屋を築いたり、大砲の鋳造に力を入れ、嘉永六年( 一八五三)には幕府に大砲七四門を献上している。また斉昭は「いくら大砲や鉄砲があっても、火薬がなくては刀の無い鞘と同じ」と、天保八年( 一八三七)には水戸調役に命じて『人造硝石』を試作させたり、弘化元年( 一八四四)には社寺改正にあたり、廃寺の堂宇を壊し「その地下の硝石を露雨のため消失せんことをおもんばかり・:」郡奉行や矢倉奉行に命じ「速やかにこれを採取させ」硝石をつくらせている。昭和が平成に改元された頃、私は今林の『炭焼き窯跡』の持ち主の前島氏宅を訪れた。氏の語るところによると、その場所は昔から『ショウエン小屋』と呼んでいたとのこと、当時はよく分からなかったが、幕末水戸藩の歴史を調べているうちに『ショウエン』とは硝煙lすなわち火薬の原料の硝石ではなかったか?の疑問を抱くようになった。また旧牛堀町の廃寺跡を調べて見ると、大方次のような場所が上げられる。永山地区日光寺・長泉院・山王窪(伝寺院跡)牛堀地区大日堂堀之内地区永命寺茂木地区旧二本松寺跡清水地区上戸地区吸江庵原ヲ伝堂i寺院跡花立山島須地区東光寺・宿(伝寺院跡)以上が旧牛堀町域内の廃寺跡だが、しかしこれらの地から硝石の原料を運び出した話も、ショウエン小屋のことも何一つ伝わっていないが、私には『水戸藩火薬工場?』の臭いがしてならない。なお、元治元年( 一八六四) 一月武田耕雲斉が潮来の弁天山Fhu円Lに築いた潮来陣屋は今林から南へ約四キロメートルの地点に在ったが、この年に起きた天狗騒動により、構築以来僅か九ケ月後に幕府軍の攻撃に会い、灰憧に帰してしまった。今林の山中にあった炭焼き窯?から、私は、いろいろなことを教えられたのであるが、まだまだ判らぬことが多い。とれからも老体に鞭を打ち、牛歩のあゆみでも、郷土の歴史について勉強してみたいと思っている。