ブックタイトル牛堀の文化 第4号 特集「私の昭和史」
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牛堀の文化 第4号 特集「私の昭和史」
勇士はここに眠れるか昭和二O年八月九日突知ソ聯が参戦し、関東軍と織烈な戦いが展開された。八月一五日終戦となる。山田総司令官は停戦命令を発し、いろいろ混乱が発生しつつも八月末には全軍の武装解除を終えた。そこからあの悲惨なシベリヤ抑留が始まる。聯兵による所持品の掠奪を受けながら、主要都市に集結され作業大隊を編成して貨物列車に詰め込まれた。そして雪吹き荒ぶ泣いて笑って歌ってたえりや望む日がくる朝がくる近衛文隆氏のことソ私が志願して初年兵になったのは一九才の時だった。同じ初年兵に近衛文麿首相の息子、文隆氏が居た。名門の文隆氏も初年兵に変りはなく、一期の検閲までの三ヶ月間は一般の兵と同シベリアや収容所に送られ強制労働を課せられたのである。極じに、食事のバケツ運びも一緒にやった。当初二一OO人位いた部隊兵は一部は沖縄へ決戦用員として、寒の地の長期抑留に組食、過労で故国の夢を見つつ亡くなった人は、抑留者百万人以上のうち実に三七万人という。人道問題以上の事実であり、到底忘れる事は出来ない。異国の丘歌竹山逸郎今日も暮れゆく異国の丘に友よ辛かろ切なかろ我慢だ待ってろ嵐がすぎりや帰る日もくる春がくる今日も更けゆく異国の国に夢も寒かろ冷めたかろ一部は南方用員として各地へ分散された。私を含むたった三名nhu q3は本土決戦要員として日本へ帰される事となった。これが運命の別れ目で、私はシベリヤ抑留の辛酸を体験すること無く、今日があるのである。昭和二O年六月下旬、私達が日本へ出発する時、ともん五年有余を同部隊で過ごした近衛文隆中尉は図例駅まで送って一五年よりくれた。当時近衛中尉はまだ二七1八才の青年将校であった。そして氏は終戦後捕虜としてソ聯に連行されるのである。近衛文隆氏のソ聯での様子とその後を、正子夫人は「阿城重砲兵聯隊史」に次の様に書かれている