ブックタイトル牛堀の文化 第4号 特集「私の昭和史」
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牛堀の文化 第4号 特集「私の昭和史」
近衛家墓所京都大徳寺にて左近衛文隆夫人正子様と右筆者近衛文隆のこと近衛正子文隆と私が下城子の官舎で一緒に暮らしたのは、昭和一九年一O月から翌年五月頃まで半年余りのことであった。その後部隊は鮮満国境の図伺に移動してゆき、私達家族も後を追って七月に図例へ行くことを許されましたが、一ヶ月ほどで再び下域子に戻れという命令で官舎に戻り、まだ荷物もとかないうちソ連の進攻そして終戦を迎えたのでした。主人はその後捕虜としてソ連に入り、ノボニコリス-37-クなどの収容所を経て二一年の春頃にはモスクワに連行されたようです。そして約七年間モスクワの未決監獄にいた後、形ばかりの裁判によって二五年の禁固刑を言い渡され、シベリヤの監獄に送られました。おそらくその頃が、精神的にも身体的にも絶望のどん底であったのではないかと想像されます。やがて赤十字による捕虜通信が許され、最初の葉書が家族の許に届いたのは昭和二七年の年末でした。それまで生死不明で、殺されたという噂があったり私どもにとっては不安と希望の間で揺れ動く日々でし