ブックタイトル牛堀の文化 第4号 特集「私の昭和史」
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牛堀の文化 第4号 特集「私の昭和史」
の暮らしの一酌を書き留めておこうと思う。Oランプ生活昭和二O年の夏、私達一家は父を軍属としてフィリピンへ送り、母と五人の姉弟達は香取の丁子(ょうろご)へ移り住んだ。で読んだ。次が読みたくても、もう字が見えずに口惜しい思いをしたのを覚えている。ある秋の夜、暮れかかってから母はランプに灯油の少ない事に気付いた。もうかなり薄暗くなっていたので、母はランプの最初に住んだ新市場の農家の空き家は、持ち主の親戚の人が疎火を付けたままワキから一升瓶の灯油を注ぎはじめた。するとあろう事がランプの火が注いでいる灯油に燃え移ったのだ。火開して来たので空け渡さなければなかった。父はフィリピンへ発つ前に家を購入する予定だったが、適当な家が見つからないままに出征してしまった。一年か二年で帰還するつもりだったので急ぐ事も無いと思ったのだ。丁子の家は親戚の新婚夫婦の家で、結婚早々若日一那が出征してしまい、未だ誰も入居していない新築の家だった。当時の電力事情は悪く申請してもなかなか電灯は引いてもらえず、まして未入居の住宅に電気のある筈は無かった。私達一家は生まれてはじめてのランプ生活を送る事になった。しかしそのランプの灯油も簡単には手に入らなかった。親戚の伝手を頼って何とか母は灯油を手に入れていたらしい。土間の隅に灯油の一升瓶が三本も並んでいると、子供心にも当分の灯りは大丈夫だなと安堵したものだった。いきおい、勉強や宿題は日のあるうちに終わらせるようにし、(日の短い冬はランプの下でもしたが)本は日が暮れ落ちて字が見えなくなるまで縁先は忽ち一升瓶の中へ入り込んだ。顔を寄せ合ってただ一つのランプの火を見詰めていた子供達は言葉を発する事も出来なかった。母は火の付いた一升瓶の灯油をこぼしながら後ずさりに土聞を横切り、庭へ出た。そのまま広い庭に灯油をこぼし続けて、-40-最後に庭の端の砂山に瓶の口を突っ込んだ。灯油の火は土聞を照らし、庭を一直線に横切ってあかあかと燃え立った。母と五人の子供達はただ呆然とその火を見詰めていた。懐かしくも切ない五六年前の思い出である。Oうなぎ戦後私達が暮らしていた香取の片田舎は一番近い商店まで一、五キロもあり、大きい買物は佐原まで四キロ以上歩かなければならなかった。毎日のおかずは殆ど野菜類で、たまに近くの小川でどじょうやしじみを取って食べるほかは、大漁の時に銚子からトラックで売りに来るさんまなどが蛋白源であった。