ブックタイトル牛堀の文化 第4号 特集「私の昭和史」
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牛堀の文化 第4号 特集「私の昭和史」
の作った黒豆が一番美味しいから」という電話です。それは嬉しいのですが、その娘達が嫁ぎ先でどの程度の正月料理を作つているのか定かではありませんが、いつか私の教えた料理を思い出して作ってくれる事を念じています。疎開の思い出佐瀬武:J,‘ ,日私は大東亜戦争さなかの昭和一七年より戦後の二一年まで、母方の実家のある牛堀に疎開していました。母の実家は「飯田屋」といい、昔は宿屋をしていたそうです。国民学校三年生のある日の午後、日本橋に空襲の爆弾が落ち、大変な騒ぎになりました。子供は東京に居ては危険という国の方針で、私も田舎に疎開する事になりました。私の家族は四人でしたが、私一人だけ牛堀に疎開するように親から言われました。子供心に大変ショックでした。親と離れて生活するなど夢にも思ったことはありませんでした。両国から汽車で佐原駅に着き、ボンボン船で横利根川から北利根川へ出て、牛堀の千歳屋汽船宿に着きました。その日から牛堀つ子、田舎つ子になり、翌日牛堀国民学校に転入し、すぐに学校生活が始まりました。驚いたのは、校舎の半分に兵隊さんが居た事でした。鹿島に上陸するアメリカ軍を迎え撃っためとの事でした。しかし日本の軍隊には武器弾薬が不足していて、ろくに食べるものも無く、朝になると兵隊さん達は鉄砲の代りに釣竿を持って、利根川で魚を釣り、食料の足しにするという惨めな戦争でした。学校に通い始めましたが、一九年頃には空襲がはげしくなり、空襲警報がなると勉強はなし、終戦近くなると毎日空襲があり、凋斗刈u τ朝八時半にはBmが学校の上空を通過して東京方面へ飛んでいきました。急いで家に帰りましたが、まだ子供だったので友達と遊ぶのが楽しく、あまり恐怖は感じませんでした。近所には、油屋の新平さん、うなぎ屋の加藤さん、貨物船の高崎丸の中村さんなど沢山の友達が居て、よく面倒を見てくれ、遊んでくれました。本当に感謝しております。同じ東京から疎開して来た村井さんが、島から渡し船で通つて来て居ました。あとで解った事ですが、飯田屋のお嫁さんのスマちゃんの実家から通っていたそうです。スマちゃんとはいとこ同士だったそうです。村井さんのお父さんは立教大学の先