ブックタイトル牛堀の文化 第4号 特集「私の昭和史」
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牛堀の文化 第4号 特集「私の昭和史」
戦後、六・三・三制の学制改革によってできた新制中学校は、ありあわせの建物で、内容は非常に貧弱でした。職員構成は七名、職員室は青年学校の銃機庫の跡で、板張りの狭い部屋でした。教室は、あの古めかしい住宅と、小学校から借りた二教室の合わせて三教室で、中学校の運動場はありませんでした。教科書は、体裁や紙質は悪くて、とてもこれが教科書と思えるものではなくて、家庭・音楽・図工・体育等の教科は、できる状況ではありませんでした。服装はどうだろうか、洋服を着て登校する生徒は数人で、ほとんどの生徒は、男女共着物で、着ながしのまま学校に来ていました。履物も田舎らしく素足に藁草履で登校し、家へ帰れば、稲束を担ぎ出し、牛のまぐさ刈り、子守りと家の手伝いは当然で、今で言う断絶とか非行とか、考えもつきませんでした。学校の昼食時は、弁当を持参してくる生徒は全くいなくて、昼になると当然家に帰ってお昼を食べてくる生徒が多くたまに梅干をいれた日の丸おにぎりだけを持ってくる生徒もいました。一年目の教員体験は、戦後の苦しい生活の中で、生きていく一人一人の生徒から、田舎の文化と風習等を教えてもらいました。私が最も辛かったことは、知らない土地で不慣れな教育をしたことでした。二年目となれば、地域の人達とも交流が諮れるようになって毎日の学校生活に生き甲斐を感じ、父と同じ、この職業を選んでよかったと実感しました。学校にも大きな変化がありました。それは、学校建築です。資材は、旧海軍北浦航空隊の建物で、村中の人を動員して牛車で資材を運び、建築業者は校舎建築に協力して、当時、郡下一の長い校舎を建てあげました。新築した校舎は五教室と職員室、校長室等で、特別教室(音楽室、理科室、家庭室)はありませんでした。しかし、念願の運動場が整備され、外での遊びゃ野球等ができるようになって、どうやら中学校らしい整備が整い、-48-風格がつきました。二O才で、教員になって九ヶ年間という長い間お世話になって、多くのことを教わった八代中学校とも別れて、潮来町の潮来小学校に転出しました。その後は、小学校畑の教育になって了い、八代小・徳島小・牛堀第二小学校等を歴任して、最後の勤務校は、堀の内に新築された牛堀町立牛堀中学校で校舎はぐっと立派になっておりました。平成元年三月には、教職四一年の歴史に幕を下して、定年退職しました。一人で降りたったこの地も、長野や東京での生活よりも長くなり、かつての生徒だった人達も今では立派な社会人となり、