ブックタイトル牛堀の文化 第4号 特集「私の昭和史」
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牛堀の文化 第4号 特集「私の昭和史」
だれが生徒か先生かわからなくなって、毎年同窓会旅行をやったり、我が家に来て昔話に花を咲かせたり、教師冥利につきる昨今です。この間いろいろと誠意を持って御世話・御尽力いただきました方々に、哀心より感謝お礼申し上げます。宿のうつり変り窪谷とく芝宿のバイパスより入って、田中川に架かる新田橋を渡ると昔の島崎村宿の集落に入る。現在は戸数四O数戸の静かな準農村であるが、中世の昔は、郡南に勢力を誇った「島崎城」の宿場として繁栄した所であった。しかし私の若い時分には、大台田ん甫や島崎うしろ方面に農作業に出かける人達の姿が時々見かける程で、およそ宿場というイメージには程遠いものだった。その後夜越川の改修、大台前・四石谷原の耕地整理の完成と「堀之内大台城跡」へ出来た牛堀中学校や、行方縦貫道路への接続道路の完成によって、今では通勤・通学で朝夕賑わいを見せている。現在の宿から昔の宿場の面影を残すものといえば、島崎城主二ニ代長国が文明二年( 一四七O)に創建した芝宿の長国寺までほぼ直線に近い宿の本通りであろう。おそらく宿場の重要道路として昔としては充分の道巾であり、宿場構成当時のまま現存していると思われる。また道路の両側の家並は奥行きは深いが間口が狭いのも宿場の特徴であろう。農村では家の名を呼ぶのに、普通「O左衛門」とか「O兵衛」とか「O衛門」とかと呼ぶのが多いが、ここでは農家であっても、商家の屋号で呼んでいる家が多い。店・江戸屋・こう屋(紺屋)・広屋・豊島屋・小間物屋・津田屋・柳屋・小柳屋・福田屋・-49-五香屋・松倉屋・飴屋・島屋・池田屋・鍛冶屋・小見川屋などがある。これはかつて宿場時代の習慣が根強く残っていたためではなかろうか?宿の東に接続して古宿がある。このE陵上に「島崎城」があった。その周辺を古宿と呼んでいる。おそらく最初はこの辺に宿場が造られたのであろうが、いつの時代か西の夜越川べりに移動して、古い宿場はその名の通り古宿と呼ぶようになったものと思われる。宿の裏手(西側)には夜越川が流れ、それに四石谷原川と、田中川とがここで夜越川と合流しているが、中世には、入り江状