ブックタイトル島崎城址
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島崎城址
1白革島崎城は常陸平氏の流れをくむ行方次郎宗幹の次男高幹が鎌倉時代の初期この地に館を築いてから17代義幹が天正19年常陸太田の佐竹義宣に滅ぽされる迄約40 0年にわたっての居城であった。行方次郎宗幹は源義経の軍に従い勲功をたてたが元歴元年屋島の戦いで討死した。宗幹に四人の子があり、太郎定幹は小高に、次郎高幹は島崎に、三郎兼幹は麻生、四郎成幹は玉造とそれぞれ館を構えた。これを行方四頭といい、行方四館とも称した。以来島崎家は鎌倉、南北朝、室町、lj境国時代と代代左衛門肘を名乗り郡南にその威武を誇った。中興の英主とうたわれた長国は善政をしき信仰あつくi芝浦禅林長国寺を創建した現在芝宿にある長国寺がそれである。天正18年豊臣秀吉が小田原城を攻めた際、17代義幹もこれに参加武功をたてた。翠年関東に勢力をはった佐竹義宣は行方鹿島の諸城主を慰労の宴を聞く甘言をもって呼びょせことごとく謀殺した。島崎義幹とその子{fit-丸も難にあい、奥方小里の方もその報を聞き自害した。さすがの要害の城も敵の手中に陥り勇敢な家臣達はちりぢりに離散し、士清帰農した。今なお子孫がその姓を名乗り繁栄されている、わが町の先輩達も40 0年の永い歳月の間島崎の歴史の中で、うぷ声を上げ、ある時は喜び、時には涙しそして死んでいったであろう。今僅かにのこる城塁を仰ぎ、また伏して感概誠に深いものがある。島崎家略図桓武天皇一高原税王-高見王一平高望一国香-繁盛一維斡-為幹一重幹一大様清幹一行方忠幹-宗幹-島崎高幹一政幹-長幹-忠宗一時幹一頼幹-高直氏幹-満幹一重幹一成幹一国幹一長国一安国一安幹一氏幹一義幹一徳一丸-1-