ブックタイトルふるさと潮来 第一輯
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ふるさと潮来 第一輯
とζ ろから、改新の胡胞の後七年目K行方郡が設量されたことKなる。当時の郡家は、現在の地名からも知られる通D麻生町の大字行方K量かれ、郡司と称する役人が行方郡全部の支配K当ったものである。しかし乙の地方制度は六O年後の霊亀元年(七一五) K郷里制に改正され、ζ れKよって里は郷K改められ、その下K新しい里が量かれたが、ζ の皇は天平年陶の一舟改正で廃止され、五十戸一郷の制が永ぐ行われるようになった。新編常駐匝誌によれば、当時行方都は十乱闘の郷と三つの里から成D、後の糊来、辻が板久の皇、(和名抄Kは板来郷)延万、古高、水原、釜谷、大生が大生郷、築地か八代郷、大賀が逢賀動(都郷考では大貨は大生村の分村であD地名を移せるものという)となっている。ζ れらは中世になって若干の変動をみるが、ほとんど新町統合前の旧村の原&をなしている。との時代の郷土の僚子を物語る文献は、風土記K限られるが、とれから知られるのは粕鹿、大生の呈と板久の皇である。まず相鹿、大生の里Kついては「古老の臼〈倭武天皇、相鹿の丘前宮に坐し給うとき、繕炊屋舎を浦辺の浜Kつ〈D立て筏を編み橋をつくって御在おおい所K遡った、大炊の義を取って、大生の村と名づけた。又倭武天皇やまとの妃大儒比売の命が後よD降D来てζ の地で逢い給うた、とのよろζ びをかたどDζ の地を安布賀の邑という」とあって相鹿、大生の地名の由来を記している。次に板釆の皇Kついてであるが、前記の地名の由釆のほか板釆の駅(厩)が設置されたととについて記して当時行方郡内では板来航と曾尼猷宝造町)色アケ所あり、ζれは大ある。化二年(六四六) の叫自にもとづいて創設されたものであるが、設置の年代は明かでない。板来の駅は国府(石岡市) から鹿島神宮に通ずる駅路K設けられたものであるが、その駅跡が何処であるかKついても現在の稲荷山付近、台上戸、天王台付近など郷土研究家の間K諸説があD、いずれも確たる証闘のないのが現状である。唯曽尼駅から鹿島への道筋で諸家の論の一致するととるは、曽尼から馬の背の様な行方台地上(現在開拓道路と呼ばれる)を通って麻生の新原へ出て、そこから石神へ抜け、更に午掘の茂木から台矢幡という経路であるが、それよD以南の路筋が説の分かれるとζ ろでるる。さて、板来駅跡が何処であるかについては今後の調査研究をまっとしでも、往昔糊来地内K国府から鹿島K至る中間駅の寄在したこと-8-は明確である。又鹿島神社は古〈から武神として広〈知られ「鹿島立ち」の言業か一示すようK防人として出立するにあたって、氏遂を祈るため遠方よDとの地を訪れる者が多かったととは、万業集K残る歌からも容易K想像できよう。更にζ の鹿島社への道は板来よD舟を利用して下総K通じていたため、ζ の地万がとの当時よD水陸両交通の要所として重要な役劃を呆していたものと考えられる。しかしとの板釆駅も弘仁二年(八一五)Kは廃止された。廃止の理由は明かでないが、国府から鹿島への道が直接霞ケ補を利用する水路K変ったとも考えられるし、元来律令の規定では、三O里(現在の約四里) CとK駅を設け、駅馬は駅戸K飼育させるものとされていたが、平安初制舶になるとそれが困難となって、田小の維持は郡の負担とまD、維持の困難念駅を整理し、規模を総少するととが全国的K