ブックタイトルふるさと潮来 第一輯

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概要

ふるさと潮来 第一輯

のである。そして郷土はζ れら行方四頭のうち地理的にも近接し、又同族中最大の勢力を有した嶋崎氏の勢力下にるフたので、次K嶋崎氏の家系図(牛堀町教委刊牛掘の文化財よD)を附してな〈。行方次郎忠幹寸景幹(行万太郎)||寸定幹(小高太郎)「宗幹(行方次郎)①寸高幹(島崎二郎)|||」寸兼幹(麻生三郎) 一下成幹(玉造四郎) 一「障問問問凶間同国間配恒一@満幹|@重幹|⑬成幹|⑫国幹l⑬長国|⑪安国l@{女幹U「1111111111111111--ー¢E牢rtg完f重牢」la- -ζ の島崎氏偽係の歴史Kついては諸家K伝わる「島崎盛衰記」(種々の写本がある) Kその様子をうかがい知るととができるほか鹿島神宮文書の中K行方太郎景幹の名がみえ、建久二年(一一九一)に太政大邑藤原兼笑が鹿島社司並K常在庁官人K対して出した下文武速の長久であるととを願ったものであるう。その後一二O年を経た元徳二年( 一三一二O)、北条高時は頼朝の菩提を吊うため党鐘を寄進しそれが現育している。当寺はその後一時荒廃したが元禄年間、水戸藩主光陶(義公) の助力で再興され、現在K至るものであるが、創立の由来は鐘銘K明かである。尚鐘銘中K 「答船夜泊、常陸蘇城」の句があb、とれから当時の糊来地方が中国の蘇、州と同様K風光明組、出船入船の盛んな地方であったととを忍ばせて〈れる。尚郷土K残る源氏関係の伝承としては、辻の鋭{巴が菅今宮八幡宮と称されたものが、治承年間頼朝が鹿島K戦勝を折るためζ の地を通-D、祈融文を喜くに使用した鋭を奉納したとζ ろから、観宮と改称されたというととや、また処方曲松の地名が同じく頼朝が鹿島への-10ー途、との地で烏帽子を松枝K掛けたととK由来する左ど、頼朝に関ナる伝承の多〈官するのは、先の長勝寺創建と関連して、との地方「行方郡円ハハ一当社神領本制加納麻生大生延万等の地頭景幹得呆したととを物語るものであるう。が武神鹿島神宮への中継地として、鎌倉期kbいても重要な役割をVζ 、分一玄々」とあって当時鹿島神宮の神領を地頭景幹が地頑得分として横領した為、それを禁止させる内容の記事である。との簡単な記録から、郷土にないても台一政財の武士団が、その勢力の拡大K懸命であった様子の一端が知れよう。しかし、鎌倉時代の郷土Kついて特記すべきは、文治元年(一一八五)源頼朝Kよって海雲山長勝寺が創建されたζ とである。頼朝が武道長を祈願しそのため長勝寺と名づけられたものであるが、文治元年とは屋島、壇ノ浦の戦Kよって平氏が滅亡した年であb、頼朝が鹿島K近接するζ の地で、自分の六、南北朝争乱以降の郷土総窟時代常陸地方に劃拠した主要な家族は、佐竹氏(源氏) 、八回一族(藤原氏) と大敏一族(平氏)であわy、とれら諸氏は鎌倉幕府と複雑念関係をもちながら、時に対立抗争し、或は連合などしながらやがて南北朝の抗争Kまき込まれ、内乱の様相を一ホしながら室町時代へと進むのである。との時期の郷土K関しては、史料を欠くためその様相の把握は困難