ブックタイトルふるさと潮来 第一輯

ページ
21/86

このページは ふるさと潮来 第一輯 の電子ブックに掲載されている21ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

概要

ふるさと潮来 第一輯

であるが、諸象族のうち南朝方へ八回一族、北朝方K佐竹氏が組して激しぐ戦かった。大縁氏Kついては、建武二年(一三三五)の北条箪敗北の後は足剰尊氏K降って、足利方(北朝)として行動している(水戸市史上巻)乙とかり当然行方の大縁支族も大歓家と行動を共Kしたと考えられる。ζの内乱Kむいて、常陸国は北自国毅一の東上浦上陸などもあって、特K激しい攻防戦が展開されたととろであるが、やがて南朝方は没落し足刺幕府が名笑共K確立する。ζの内乱を通し八回一族が没落すると共K佐竹氏の勢力は増大され、佐竹大縁両氏の対立措抗は、上杉綿秀の乱を通して槻宗を支援した大敏氏Kは決定的念打撃と念って勢力を弱化さぜる。一方足利氏と結んだ佐竹氏は、益々その勢力を鉱大し常陸守議の地位を独占してい〈。しかしζの様な時期Kあっても、常陸大敏氏の庶流は府中を中心K那珂動から行方鹿島真壁の-諸都の各地K領主化し、その後も所領郷村K拠って独自の勢力をふるい続けるものである。行方郡は先KみたようK大敏氏の流れを〈む同族の玉造、行方(後K小-局)麻生、島崎の副頭が割拠したしたが、やがて弱肉強食の戦国期に入ると、とれらの同族もその例Kもれず互K勢力の拡大をはかつて抗争を展開してくる。特K郷土の支配者島崎氏は、名門佐竹氏と血縁関係を結んで繁栄したが、島崎城主十四代の左衛門尉安国は大、永二年(一五ニニ)に同族の永山城(牛掘町)を攻め滅し、更K十六代城主大炊介氏幹は北方K勢力をのばし天正十二年(一五八O)行方郡の中心麻生城K拠る麻生氏を攻め滅ぼして、麻生以南の地を完全に掌握するにいたった。島崎氏の郷土支配は城主十七代K及ぶが、室町から戦国期Kかけての郷土K関しては、俗称「大殿様」で知られる大生氏が島崎氏時代Kその家邑として代々大生邑を領し続け、島崎氏滅亡後は徳川の昆土井刑勝K仕えたことが明麿二年(一六五六vk建てられた碑文に残されているとと、また延万の鎮守社の棟札K、応永二拾年ご四一三)島崎城主彦四郎が御輿を寄進したζと、その後一元亀三年(一五七二)K島崎城主が同じ吉田社の修造を施したととが記されているととから「島崎城主は代令信仰心が深い」との伝一琢の一端をうかがい知るのみである。七、佐竹氏の領国統一と郷土一11-応仁の乱を契機としてはじまった戦国の世も、織田信長の出現Kよって全国統一の兆しがみえてきた頃、常陸K訟ける最大の勢力は中世以来の名門大名佐竹氏であった。との佐竹氏が中央の権力と関係を密接Kして〈るのは、本能寺の変K倒れた信長Kかわって、且且民秀吉が全国統一K乗b出した時期からであり、ζの秀吉との結びつきが佐竹氏飛踏の基縫となっている。秀吉の小田原征伐後、北条氏K従った常陸の諸氏は没落し、且呈出方として尽力した佐竹氏は、秀吉の権力を背景K水戸の雄者江戸氏を追い、更に平安時代よbの名門大嫁氏を府中(石岡市)K攻め滅して、約四00年間大敏氏の支族として行方、鹿島地方に劃拠した諸領主をととCとく滅ぼし、短期間ではあるが北関東の大々名として